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□小噺紙片
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 貴方は、とてもお忙しいお方。

 私が貴方を垣間見ることが出来たのは、ただの運命の悪戯。

 方違えで我が家にお泊りにならなければ、そのお姿を見ることも出来なかったでしょう。

 女は、部屋で愛しの方が訪れてくださることを待つしかないのです。

 なんて、待ち侘しいことでしょう。

 貴方を見たその瞬間、息をすることも出来なかったのに、貴方が私を見ることはないのでしょうか。
 貴方のその黒炭のような瞳に、私の姿が映ることはないのでしょうか。

 叶うことなら、今すぐにでも貴方の下に駆け寄って、「お慕い申し上げております」と告げたいものです。


「あの方に、北の方はおいでなのかしら……」

「姫さま」


 乳兄弟の諫めるような声。

 えぇ、分かっています。私は恋心なんて抱いてはいけないのですから。

 お屋敷の奥で大切に大切に育てられて、お父様以外の殿方にはお会いしたことがないくらい、箱入り娘として生きてきました。
 いつか帝からお召しがあってもいいように。


「分かっているわ、大丈夫よ」

「姫さま、あちらで碁をうちましょう?」

「待って、もう少しだけ」


 私をこの場所から引き離したいのでしょうね。
 これ以上あの方に想いを寄せないように……。

 それでも、分かっていても、目がはなせないのです。
 抱いてしまった恋心を、偽ることなど私には出来ません。
 誰か、偽る方法を教えていただけないでしょうか?

 生まれてこの方、文の一つも頂いたことがありませんもの。

 あぁ、あの方はどのような歌を詠むのでしょうか?
 どんなお声で読み上げるのでしょうか?


「姫さま、いけません」

「もう少しだけ……、お願いよ」


 私のことに、気付いてください。
 一度で良いのです。

 どうか、どうか私のことを見てください。

 ひとときの夢を私に与えてください。

 文がほしいと、贅沢などは言いませんから、哀れな女がいたとだけ、そっと心の隅に置いてください。

 それだけで十分ですから、どうか……


「あ……」


 ふわり、と風が優しく吹きました……。

 ほんの一瞬だけ、目が合ったような気がいたしました。

 ほんの一瞬、されど一瞬。
 私には永遠のように感じました。


「姫さま、これ以上はいけません」

「えぇ、分かっているわ……」


 衣擦れの音を立てないように、私はそっと御簾から離れようと立ち上がった。

 これでいい、これでいいのです……。

 ひとときの夢と思わなければ、私はこの恋心を押さえることもできないでしょう。
 忘れることなどできません。

 よき思い出と、なりました。
 よき想い出と、させてくださいました。

 これ以上何も望まないよう、私は何も言わずに去りましょう。


「……そこに、誰かおられるのであろうか……?」

「!」


 息が、止まりそうな心地にございます。
 貴方は私に気付いてくださったのですね。
 それだけで、十分です。

 返事をしてはならないと、静かに首を振る乳兄弟に分かっておりますと微笑み、私は今度こそその場を後にいたしました。

 後ろ髪をひかれる想いですが、これ以上は何も望みはいたしません。

 さよなら、私の初恋。
 この恋心を置き去ることはできませんが、貴方とともに歩くこともできません。

 これは一時の夢だったのです。

 きっと、もう出会うこともないでしょう。




想ってるから別れる
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