anniversary(小説)
□出産祝い
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『出産祝い』
「悪い。日曜は予定がある」
「は?」
休みの予定を聞かれたから応えたが、桐嶋の機嫌がどんどん悪くなっていく。
横澤は一歩前を歩く桐嶋に視線を向けながらため息を吐いた。
帰宅途中でこれでは、帰ってからはもっと気まずいだろう。ただでさえ疲れているのだ、帰ってまで精神的な疲労を抱えたくはない。
横澤は仕方なく、妥協案を告げてさっさと桐嶋に機嫌を治して貰おうと口を開いた。
「夕方にはそっちに行けると思うが……」
「仕事か?」
「いや。プライベートだ」
「ふーん」
ヤバい。
余計に機嫌を損ねてしまった。
若干遅くなった歩みに、桐嶋の苛立ちが伝わってくる。
一歩前を歩いていた桐嶋が、今度は横澤の一歩後ろから冷めた視線をぶつけてくる。背後からの視線でも、一定の感情がこもった視線というのはわかりやすいのだと知る。
もうマンションに着いてしまうのだから早く機嫌を治して欲しい。
別に疚しいことは何一つないはずなのに、桐嶋に機嫌を悪くされると焦ってしまうのだ。それが余計な疑いをかけられる要因となっているのだが、今の段階でそれに気づけるほど勘が良いわけでもなかった。
「あんたの予定は?」
「んー……ひよもいないし、お前と一日中イチャイチャしようと思ってた」
「暇なんだな?」
「違う。お前を構い倒す予定でいっぱいいっぱいだ」
「あっそ」
ようするに日和が朝から出掛けてしまうのが寂しいという事だろう。
自分とそういう事がしたいなら桐嶋の場合どこでも手を出してくるだろうし。今、帰宅途中だろうと平和に歩いていられるならば桐嶋の欲求不満にはまだ余裕があるという事だ。
アホらしい。
だが、娘がいなくて寂しがる父親を放っておけるかと云われると、それが出来ないのが自分の性分だった。
「あー……その、予定というのは買い物なんだが、あんたも来るか?」
「買い物?だったら車出してやるから初めからそう言え」
横澤の予定を何だと思っていたのか、桐嶋はようやくピリピリしていた雰囲気を和らげてくれた。
穏やかなときには本当に話しやすいというか、印象が軽いというか……。それなのに、桐嶋に少しでも睨まれると恐ろしいほどに緊張が高まる。営業部の部長も時々胃を押さえて会議から戻ってくる事があった。
美形は黙らせると怖いって本当だ。軽口を叩いていてくれたほうが何倍もマシだと気づいた。
「友人の出産祝いを買いに行こうと思ってな。あんた来ても楽しくないだろう?」
「お前と一緒に出掛けられるならどこだってデート気分だよ」
「……云ってろ」
デートという行為に興味がないわけではないが、桐嶋と二人で出歩くには理由を見つけるのが難しい。だから横澤としては桐嶋とデート……という言葉は勘弁して欲しいが、一緒に過ごすならどちらかのマンションでというのが落ち着く。
だが、今回ばかりは素直に買い物に付き合ってもらったほうが良さそうだ。
すっかり忘れていたが、出産祝いに関しての経験者がすぐ近くにいたのだ。一緒に選んでもらうのにこれほど適した人はいない。
「なぁ。あんたのとき、出産祝いで貰って嬉しかったものは?」
桐嶋ならば出産祝いを貰った事も贈った事もあるだろうから、上手く相談に乗ってくれるはずだ。実際部下からのそういう相談は多いはず。桐嶋は苦笑いしてありきたりの言葉を告げてきた。
「んー。貰えたら何でも嬉しいんだけどな。親って子供を祝ってもらうだけで嬉しいもんだし」
「そういうのはいい。実際に役に立ったものは」
「オムツ」
考える素振りもみせずに即答してきた。
「訊いてるのは出産祝いなんだが……」
「出産祝いで贈られてきたんだよ」
「は?誰だよ、贈ったの」
「俺の不肖の親友」
「ああ。あの人か」
「そう。オムツ買いに行く時間もなかったから凄ぇ助かったけどな」
確かに必要性はばっちりだ。だが、桐嶋の親友ならばオムツくらい贈ってきそうだが、横澤がそれを贈るには色々問題がありすぎる。
「お前はベビー服あたりで良いんじゃないか?よだれ掛けなんて一日何度も取り替えるし、貰って困るもんじゃないから」
「そうする」
やはりベビー服が無難だろう。
よくわからなければギフトを贈れば良い。それが、過去数回の出産祝いを選びに行って学んだことだ。
横澤は自然とため息が漏れてしまう。
「どうした?」
「いや。たいした事ではないんだが」
「何だよ」
「……ベビー服ってなんであんな高いのかと思って」
確かに凝っている。レースや刺繍で可愛らしいし良いものを使っているのだと思うが、それでも大きさと値段に疑問が出てしまうのだ。前回は靴下を贈ってみたが、それ一つで横澤の靴下が何足も買えそうだった。
毎回ベビー服売り場でうんうん唸っていたから店員もビビって助け船を出してくれなかった。もはやベビー服売り場は横澤にとって場違いな場所だと認識している。
「ははは。お前相変わらずだな。確かにベビー服って高いわ。急な出費と考えれば痛いわな」
肩を揺らして笑う桐嶋を睨むが、大きな手で髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜられた。
「おい……」
「悪い悪い。けどああいうのはお互い様だからな。自分のときにお返しがくると思えば少しは気が楽だぞ」
「は?」
「…………あ」
マンションの手前で二人完全に足が止まってしまった。
桐嶋は自分の発言に気づいて全身固まっている。社内外でカリスマとして騒がれている男の珍しい失態に、横澤は呆れてしまった。
まさか桐嶋からこのアドバイスがくるとは思ってもいなかったから。
「桐嶋さん。俺は自分のときのお返しを期待しても良いのか?」
「いや。……駄目、だ」
「何で?」
「何でって、お前」
呆然と立ち尽くす桐嶋を視界に残しながら、横澤は歩き出した。
さて。
この失態のフォローはどうするんだ?カリスマ編集長さん。
横澤は呆れ顔を見せないよう、顔を逸らす。これに懲りて少しは軽々しい発言を反省して欲しい。
そう考えて、わざと呆然としている桐嶋を置いてエレベーターに向かった。
さっさと帰ろう。
今頃ひよが肉じゃがの材料を並べて待っている。
予定より遅くなってしまったから、日和にデザートでも用意してやるか。そんな事を考えながらエレベーターのボタンを押した。
一階に来ていたエレベーターはすぐに扉が開く。扉が開いたその瞬間、横澤は背後から強く突き飛ばされた。
「うわっ」
エレベーター内の壁に正面から勢いよくぶつかった。
「馬鹿野郎!危ねぇだろッ」
犯人はわかっている。
横澤がぶつかった壁は鏡がついているから、続いてエレベーターに乗り込んでくる桐嶋の姿もちゃんと映してくれた。
「横澤。今後出産祝いなんかのご祝儀は全部俺が金出す。だから二度とお返しなんて期待すんなよ」
無表情で距離を詰めてくる桐嶋に、横澤はエレベーター内で逃げ場がなくなった。
壁に張り付いていた肩を掴んで正面を向かされる。
「おい何」
桐嶋は間髪入れずに唇を押しつけてきた。
「ンッ」
ここが使いなれた桐嶋のマンションのエレベーターだということに、血の気がひいていく。キツく腕を回してくる桐嶋に抵抗の意思を示すが、口づけが余計に深くなるだけだった。
「はぁ……ッ…ン」
呼吸すら奪われるかのような激しい口づけに、桐嶋の背を叩いて中断を訴える。
「…ふ…ッ……ッ」
こんなの完全に八つ当たりじゃないか。
桐嶋を睨み付ければ返ってくるのは情欲を含んだ熱い視線。
「……ッ……ぅ」
耐えられなくなって目を瞑り、桐嶋の視線から逃げてしまった。
舌の根に絡み付いた桐嶋のそれが、キツくキツくそこを吸い上げる。生理的な涙が滲んできた。
くそ……。
抗えない。
腰が完全に砕けてしまった。
桐嶋に支えられていなければ、さっきとは別の壁に倒れ込んでいただろう。
そもそも出産祝いのお返しなんて自分はこれっぽっちも期待していない。桐嶋が勝手に云って勝手に墓穴を掘っただけだ。
出産のお祝いで贈るのだから、お返しを期待する事自体間違っている。
桐嶋は横澤が他の誰かと生きていけると思っているのだろうか。
そんな生活もう考えられない。
いつか訪れるかもしれない、桐嶋と離れなければならない人生なら、おそらく自分は最期まで一人で生きていくだろう。
桐嶋と付き合う内に、それだけの覚悟はしたつもりだ。実際そうなったら冷静でいられる自信はないが、自分の中では桐嶋を一生の相手にしたいという気持ちに変わりはない。
だからこうして、桐嶋の口づけを本気で拒めないのだ。
好きな相手からの口づけは、例えどんな状況でも身体が反応してしまう。
気持ちいい。
安心して身を任せて良いんだ。
受け入れろ。
脳内に刷り込まれた感覚は抗い難いが、いつでものまれる訳にいかない。それでも、横澤の意思に反してどうしても流されそうになってしまう。
「……っ」
急にエレベーターが上昇する感覚に目を開けると、桐嶋の視線が自分から外れていた。
桐嶋は階数表示の辺りを睨んでいるらしい。ということは、桐嶋が操作したわけではないのだろう。
「ンンッ……ふ…ぅ」
最後に口内で混ざりあった体液を半分持っていかれて、桐嶋の舌は離れていった。
口づけからは解放されたが、唇が離れてすぐに桐嶋の喉が上下するのを見てしまった。
「……ッ」
さっき混ざりあった二人分の体液……。
今、横澤の口内にも残りの半分が残されている。
いつも口づけの最中には平気で飲んでしまうものでも、こうして桐嶋の情事を感じさせるような意味深な行為を見せつけられてしまえば飲み込む事も出来ない。
それなのに、桐嶋は横澤の顔を覗き込んで笑みを浮かべてきた。
早くしないと誰か乗ってきちまうぞ?
「……ッ」
そんな風に意地悪く笑みを深める桐嶋が腹立たしい。
けれどこんな状態で桐嶋との名残を飲み込むなんて、横澤にはハードルが高すぎる。
「……」
「……ん?」
勘弁して欲しい、と目で訴えれば、わざとらしく首をかしげられてしまう。困っている恋人を目の前にして肩を揺らして笑っているのだ。本気でタチが悪い。
「……」
「横澤?」
「……ン」
エレベーター内に桐嶋と混ざりあった体液を飲み干す音が自棄に響いた。実際にはエレベーターが到着する音しか聞こえていないだろうが、桐嶋の表情から、横澤がそれを飲み干したのはわかったらしい。
開いた扉から入ってきたのは、桐嶋家の隣に住んでいる人だった。ならばここで降りれば良いのだろう。
横澤はふらつきながらエレベーターを降りた。
「こんばんは」
「どうも。今お帰りですか?」
「ええ」
すれ違い様に挨拶を交わす桐嶋は平然としている。
横澤はというと、顔を上げられないくらい動揺していた。
「……」
きっと顔は赤く、目には涙が滲んでいる。
こんな顔を見せられるわけもなく、横澤は俯いたまま会釈だけして通りすぎた。
部屋の前まで来てようやく力が抜けたと思ったら、最後に爆弾を落とされてしまった。
「横澤。今夜は俺のもっと濃いやつ飲ませてやるからな」
「……ッしね!」
玄関から響いてきた横澤の怒声に、日和が驚いて飛び出してきたが、桐嶋が上機嫌で娘を抱き上げてさっさと部屋に上がり込んでしまう。
残された横澤は今夜の行為に尻込みしてしまい、なかなか部屋に入れなかった。
明日は絶対高い出産祝い買わせてやる……。
それくらいしか、桐嶋への復讐が思い付かなかった。
終わり