anniversary(小説)

□いい夫婦の日
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『いい夫婦の日』





 今日は11月22日。
 所謂、いい夫婦の日だ。

 もっとも、自分の妻は大分前にこの世を去っているから、どれだけ世間が騒ごうと、この日ははっきり云って他人事だった。

 だが、今年はいい具合に可愛い熊さんが隣にいる。

 11月22日の朝、家を出るときの桐嶋のテンションはかなり高めだった。





 その割りに、朝から一度も横澤に出くわさない。
 仕事中はどっちも忙しいから、こんな日もあるにはあるが、今日という日に限ってこんなにもすれ違いが生じなくてもいいだろう。
 編集部と会議室の往復だけでも、普段は横澤の顔くらいは見ることができる。もちろん少しだけ無理をして行動を合わせていたのだが、ここまですれ違うなんてついていない。


「っつーか、あいつも少しは今日という日を意識してくれてもいいんじゃないか?」

 重役との会議のあと、少し疲れた脳を休ませようと自販機の前で立ち止まった。
 小銭を出すのも面倒で、無造作に財布から千円札を取り出す。
 飲み慣れたコーヒーのボタンを押し、つり銭と共に缶を取ろうと身を屈めたところで違和感を感じた。

「あ?」

 釣り銭口に手を突っ込んだら、やけに指に感じるものが多すぎるような気がした。
 時々あるが、釣り銭が細かいもので大量に戻ってくることがある。10円玉の大量返却とか……。
 財布が重くなるのもいい気分じゃない。
 桐嶋は、自販機の横に設置してある募金箱を利用させてもらうことにした。
 そうと決まれば、大量の小銭を釣り銭口から取るために本格的にしゃがみこむ。

「よっと」

 手のひらを上に向けて、釣り銭口から小銭をじゃらじゃらとかき出すと、何だかさっきとは別の違和感を感じてくる。

「……多くないか?」

 疑問はさっきと同じだが、内容は別のものだ。
 すべて手のひらに回収して数えてみれば、やはり釣り銭の金額が合わない。

「誰だ?釣り銭忘れるうっかり屋は」

 どうやら自分と同じ千円を入れていたらしいが、それを回収しないで行ってしまうなんてどれだけ急いでいたのだろう。
 釣り銭が邪魔だと考える同類かもしれないが、だとしたら隣の募金箱にしっかり納めてから立ち去るべきだ。
 かといって、むやみに募金箱に入れてしまうわけにいかないのが金銭の怖いところだったりする。
 桐嶋は、雑誌を見ながら休憩中の女子社員に声をかけた。

「君、ずっとここにいた?」
「え、はい」
「俺の前にここ使ってた奴ってわかるかな?」
「ぁ、さっき横澤さんが買ってました。えーと向こうで桐嶋さんと井坂さんの話し声が聞こえてきたくらいのときだったかな」
「横澤が?」

 予想外の名前に、思わず目を見開いてしまった。

「はい。急いでたみたいで缶を取り出したら走って行っちゃいましたけど」
「はぁ?」

 何故だろう?
 横澤が走って行くほどの事が起こっていれば、社内にそれとなく噂は広まるはずだ。
 だとしたら、あいつは一体何を慌てていたのだろう。

 なーんてな。

「き、桐嶋さん?すごい楽しそうですね…っ」
「え、そうか?」

 今さら隠しても遅いかもしれないが、緩みっぱなしの口許を手で覆ってみる。

「サンキュー。お礼に、貰い物で悪いけど」

 訝しがる女子社員に、会議中に配られた焼き菓子を差し出す。
 それが思いの外喜ばれた。
 やはり『女』には甘いものが有効なのだろう。ついでに『女性』には『高級な』というオプションも付け加えなければならない。
 その点、重役との会議で出された焼き菓子は最適だったようだ。
 菓子を食いながら会議をするのも微妙だったが、今は井坂に感謝する。

「じゃあ」
「はい!ご馳走さまです」





 桐嶋は早速営業部に足を向けていた。
 これから午前中に部下たちがデスクに置いていった仕事を片付けなければならないのだが、それは戻ってから気合いを入れるとしよう。

 横澤が慌てて走っていったのは。

 小銭を取らずにこの場を離れなければならなかった原因は……。

 一日中この俺から逃げ回ってくれた理由は……。

 考えるまでもない。


「あいつ、意識しまくりじゃねぇか」

 いい夫婦の日。

 常日頃、冗談を装って散々いい募ってきた甲斐があったのだろう。
 しっかりと奴の中に【嫁】だと、そして二人の関係を【夫婦】だと刷り込みさせることに成功していた。

「さて、嫁さんの期待に応えて盛大に構ってやんねーとな」

 あまりにもあいつが可愛らしい事をするから、むかつくほど旦那様から逃げ回っていた仕返しは、すこしだけ軽めにしてやろう。

 とりあえず、覚悟しておけ。





終わり

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