anniversary(小説)

□感謝の気持ち
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『感謝の気持ち』





「じゃ、ちょっくら行ってくる。あと頼むな」
「ああ」

 玄関で靴を履く桐嶋に、思わずため息をついてしまう。

「桐嶋さん。せめてマンション出るまではその顔止めろ」
「はっ、これでも抑えてんだよ」

 そういう桐嶋だが、普段の横澤へ向けてくる悪人面以上に危ない顔をしていた。
 桐嶋の機嫌の悪さは絶好調だ。
 祝日の朝、惰眠をむさぼっていたら電話で呼び出されたらしい。
 リビングでテレビを見ていた横澤と日和は、桐嶋の携帯の着信のあと珍しい怒鳴り声が聞こえ、思いっきり身を固くしてしまった。
 日和は膝に乗せていたソラ太を抱きしめ、ソラ太も日和にしがみついている。
 横澤も、出来ることならこのまま自宅マンションへ帰りたいくらいだった。
 暫くすると、桐嶋は寝室から出てきて低く呟いた。

「出掛けてくる」
「仕事か?」

 聞けば、桐嶋は苛立ちに髪をかき混ぜながら洗面所へ向かった。

「大先生が原稿に納得いかず、破り捨てたそうだ」
「……ッ」
「締切守るなら勝手にどうぞだが、そうも云ってられなくてな」

 桐嶋の怒鳴り声の原因を知り、横澤も納得した。
 すぐに水音が聞こえてくる。
 これはかなり緊急の呼び出しのようだ。
 横澤は昼食に近い朝食の用意をする為にソファーから立ち上がった。
 そして、まだ緊張している日和とソラ太の頭を撫でる。

「心配しなくていいぞ。パパの怒りはもっともだ」
「そうなの?」
「ああ、大丈夫だ。怒鳴って当然。俺なら殴りに行くかもしれん」
「え!全然大丈夫じゃないよ?パパも殴りに行っちゃうかも…」

 日和も横澤に合わせて立ち上がると、キッチンで一緒に準備をする。

「大丈夫だって。パパは編集長だから作家が仕事できなくなるような真似はしない」
「そうかな…?パパって大人げないときあるから」
「あー……パパは会社で凄い信頼されてるんだぞ?仕事も誰より出来るし、皆から尊敬されてる」
「へぇ。お兄ちゃんもパパのこと尊敬してる?」
「まぁな」

 桐嶋相手には絶対云えないが、日和には素直に云える。
 冷蔵庫を開けて、簡単に作れる朝食を頭に思い描いた。

「そうだ!だったらパパがお仕事で出掛けてる間に、美味しいお夕飯の準備しよう!」
「え?」

 卵を掴んで、日和を振り返る。
 すると、そこには誇らしげに胸を張った日和がいた。

「今日は勤労感謝の日だもん!」

 学校で習ってきたのか、新しい知識を披露する日和に、思わず口許が緩んでしまう。
 社会人になってから、祝日なんてただの休日としか認識できないようになっていた。
 そういえば、勤労感謝の日だった。
 桐嶋と付き合うようになって、日和と親しくなって、すっかり疎遠になっていた行事にも意識が向くようになってきている。
 不思議なものだ。
 自分以外の人の事を考えて生活しているなんて。特に子供が楽しめそうなイベントは、無意識に日和の事で頭が一杯になってしまう。

「よし。パパが出掛けたら買い物行くか」
「うん!」
「パパの好きなの作ろうな」
「うん!」






「さて。行ってきますよ、奥さん」
「誰が奥さんだ。気を付けてい……あ」

 ドアを開けた桐嶋を呼び止める。

「あー……その、夕飯までには…絶対帰って来いよ。……いや、でも時間かかりそうか?」

 正直に内容を教えるわけにはいかないから、こんなしどろもどろになってしまう。

「そりゃ、早めに帰るようにするが。何で?」
「ぅ…別に何でもない……」
「何でもないのにお前わざわざそんな事聞かないだろ?」
「うるせぇな。いいから早く帰ってくればいいんだよ!」

 玄関での云い合いを終わらせたくて、問い詰めてくる桐嶋の背中を押して外へ放り出す。

「こら、なんつー見送りしてくれんだ」
「はいはい。伊集院先生が待ってるぞ。さっさと行って腹減らして帰ってこいよ」
「……お前な」

 ちょいちょいと手招きされたから顔を寄せれば、玄関の外へ引っ張り出されてしまった。

「うわっ」

 身体半分外に出た状態で、がっちり頭を捕まれキスされる。

「んんんーーーッ」

 頭を抱えてくる桐嶋の腕を引き剥がそうともがくが、まったく抵抗にもならなかった。
 ようやく解放されたときには、もう頭のなかがぐちゃぐちゃだ。

「旦那サマに嘘つくからこうなんだよ」
「しね!」
「はは。今夜のデザートは俺が買ってくるから、メインは頼んだぞ」

 笑顔でエレベーターへ向かう桐嶋に、何か良い罵りの文句はないかと必死になって考えてしまった。
 横澤の怪しい態度で状況に気づいたなら、キスの嫌がらせなんて必要なかっただろうに。

「もう尊敬なんてしてやらねぇ!」

 本人がいなくなったマンションの廊下で、横澤は考え付く限りの暴言を呟いた。





終わり

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