anniversary(小説)
□鬼よりやっかいな旦那様
1ページ/8ページ
『鬼よりやっかいな旦那様』
パパ、お兄ちゃん。
遅くに帰ってきたほうが鬼だからね?
それじゃ、行ってきまーす!
横澤はデスクの表面を指先で叩き続けた。
そのトントントントンという一定のリズムは神経質な程に秒針と同じリズムで刻まれていく。
ただでさえ怖い暴れ熊が神経を尖らせているのだから、誰一人として彼に近付ける者はいなかった。
横澤は営業部に設置してある社内時計を睨みつける。
あと、五分……。
定時になるのを今か今かと待ちながら、いつでも立ち上がれる態勢を整えておく。
横澤は三十分ほど前からこの態勢を貫き、時計との睨み合いを続けていた。
仕事はとうに終わっている。気合いでは済まされないほどにがむしゃらに働いたおかげで、今日はもうするべき事はない。
すでに鞄もコートもマフラーも、まとめてデスクの上に並べてある。これで時間が来たらすぐに退社できるだろう。
これもすべて日和の提案の為だった。
今日は節分。
福は内、鬼は外。
鬼になって子どもに豆をぶつかられるくらいだったら横澤も笑って引き受けたのだが、桐嶋があとから付け加えた馬鹿な提案の所為で、鬼役のハードルは山のように高くなってしまった。
絶対やりたくない。
桐嶋と横澤、二人のうち遅くに帰ってきた方が鬼役に抜擢される。そして、鬼役は悪い事をしたお仕置きも受けなければならない。
最初のルールは日和の提案で、最後は桐嶋の提案だ。しかも桐嶋はお仕置きは可哀相だと詰め寄る日和に、鬼がみんなと仲良く暮らせる為には必要な事だと説き伏せている。
己の楽しみの為に娘を騙す悪い父親を見てしまい、横澤は呆れてしまった。
一体自分に何をさせたいのか。桐嶋のお仕置きが気になるが、きっとろくな事ではないだろう。
自らそんな提案をするだけあって、桐嶋は完全に自分が早く帰れるのだと確信していた。
それが悔しくて堪らなかった。
ジャプンの今の状況は社内のカレンダーを見れば横澤にだってわかる。校了を終えたばかりで、今のジャプンは平和なのだ。
早く帰ろうと思えば横澤よりも早く退社する事も出来るだろう。
くそ、誰がお仕置きなんて受けるかよ。絶対ぇ返り討ちにしてやる!
横澤は時計の針が定時を指すと同時に、風のように営業部を飛び出していた。
何としてでも桐嶋さんより早く帰らないと!
横澤は一階ついたエレベーターを降りて、足速に受付の前を通り過ぎる。
「横澤さん、お疲れ様です」
「お疲れ」
受付嬢に挨拶をして会社を出ようとしたその時、横澤の足が止まった。
「や…たッ」
コートのポケットの中で小さくガッツポーズを作る。
さっきまでの焦燥は何だったのかという程に、気分が良かった。
何故なら、もうとっくに帰っていると思っていた諸悪の根源桐嶋が、エントランスで取締役に捕まっているのだ。
桐嶋の肩には通勤用の鞄が掛けられていて、まさに帰るところを呼び止められたといった様子だった。
内心ほくそ笑みながら、横澤は再び歩きだす。
出入口のすぐ横で取締役と話している桐嶋は、話の内容はわからないが半笑いをしていた。どんな難しい状況も飄々と突き進んできた丸川随一のヒットメーカーにはあり得ない表情で、その心情が横澤には面白いほど良く伝わってきた。
会社のエントランスでなかったら、桐嶋を指差して笑っていたかもしれない。
そして横澤に気付いた桐嶋は、悔し気に表情を歪めた。もとが格好良いとどんな表情でもサマになるのだと感心してしまう。
けれど同情はしてやらない。
ざまあみろ。
心の中で呟いて、横澤は桐嶋を引き止めてくれた取締役に会釈してからそこを通り過ぎようとした。
………が。
桐嶋は横澤を逃がしはしなかった。
「そうだ横澤、お前も取締役の話聞いてから帰れ」
「はぁ?」
通り過ぎ際にサラっと呼び止められた事が信じられない。
普通そこまでするだろうか。
桐嶋を振り返り、ただでさえ悪い目付きで睨み上げると、そこにはいつもの人を食ったような表情で笑う桐嶋がいた。さっきの悔しそうな姿はどこにいったのだろう。
「取締役の井坂さんから直々の話だそうだ」
「ああ、横澤も聞いてけ聞いてけ」
「いや、その……」
取締役にまた今度にして下さいなんて云えるわけがない。
横澤は大人しく身体の向きを変えた。
「じゃ、俺は先帰る。井坂さん、しっかり横澤を誉めてやって」
「任せろ!」
そして、上機嫌な桐嶋の手が横澤の肩を叩く。
「横澤、先帰ってるからな」
「く…っ……桐嶋さん、まだ井坂さんと話があったんじゃ?」
「いや、もう話すことはないよ」
なけなしの表情筋を使って笑みを作る横澤と違って、桐嶋の笑顔は自然だった。自然に、性格が悪そうな笑みを浮かべている。
『あんたが呼び止めなければ、俺が先に帰ってただろうが!』
『はっ、誰が先に帰らせるか』
互いの表情や雰囲気から感情を読み取り、ちょっとしたコミュニケーションならとれるようになったけれど、こんなコミュニケーションならしたくなかった。
軽く手を上げて会社を出ていく桐嶋を、横澤は苦い表情で見送った。
「桐嶋の奴、俺との話勝手に終わらせて行きやがった。横澤、お前はちゃんと付き合えよ?」
「はぁ……」
桐嶋の馬鹿野郎。今晩飯抜きにしてやる。