anniversary(小説)
□この人に抱かれたい
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【早瀬様】
リクエスト有り難うございました!
『会社で桐嶋さんをカッコいいと思ってしまう横澤さん』
『この人に抱かれたい』
「横澤さん、ジャプンから例のデータってきてますッ?」
外回りから戻ると、受話器を首に挟んだ逸見に呼び止められた。
「例のって、ちょっと待て」
朝出るまでは受け取っていない。
横澤は自分のデスクに足を向けた。
基本は手渡しだが、横澤が営業に出ている間にデスクに置いていく奴も中にはいる。もしかしたら今の営業の間に届いてたかもしれない。
デスクに積まれた要確認の資料や、別件のデータファイル。数時間空けているだけで色んな物が増えている。
ざっと仕訳ていくが、ファイルはどれも別件ばかり。
「ちっ…無いか」
積まれた中には探しているファイルはきていない。
横澤は部下のデスクに向かって声を上げた。
「まだ届いてないぞ。相手誰だ?何を言ってる?」
「えーと、データ締切が昨日までだって言ってきてます……」
「はぁ?ふざけるな、締切は金曜で、今日はまだ水曜だろうが」
「そうなんですが…」
逸見の引きつった表情と言葉に、相手が業者である事と、切羽詰まった状況である事がしれる。
「変われ!」
横澤はつかつかと逸見のデスクに回り、受話器を奪い取った。
「ジャプンに行って来る」
状況を把握した今、出来ることといったら謝罪に回る事くらいだった。
「横澤さん、でも…ッ」
隣で顔色を悪くしている逸見は、横澤の腕を掴んで引き止める。
「横澤さんの責任じゃないでしょうッ?」
逸見はそう言って引き止めるが、だから関係ありませんというわけにはいかない。
「とにかく、謝罪だ」
「…でも」
「それに、確認を最後までしなかった…俺の責任だ」
逸見を引き剥がし、横澤は営業部を出た。
脚が重い。
横澤は眉間に皺を刻んだままエレベーターに向かう。
業者からの電話は状況が悪すぎた。
あまりにも苦況すぎてため息も出ない。
ジャプンが企画したフェアが台無しになるかもしれなかった。
新刊発売に合わせて人気作家の書き下ろしイラストを配布するというフェアだが、これが確実に当たりを予感していた。
読者は欲しいイラストを手に入れる為に、普段は買わないコミックにも手を出すだろうし、もしかしたら続巻を求める可能性だってある。
確実にコミックの売り上げは倍増するだろう。
そのフェアのデータ、つまりは企画書と作家の書き下ろしイラストの締切日が過ぎている、という状況だ。
完全に営業内のミスだった。
締切変更の連絡を受けた奴は、もう丸川書店にはいない。
先日寿退職をしていったのだ。
彼女が編集部に連絡したかは今となっては確認のしようがないが、編集部からデータが来ないという事は、そういう事なのだろう。
エレベーターは上層階で停まっていて、なかなか動きそうにない。
横澤はエレベーターを諦めて、階段を使った。
現実が重くのしかかる。
頭を下げるのは仕方がないが、問題は発注が間に合うか、だ。
締切は何とか明日の早朝まで待ってもらえることになった。けれど、いつも締切ギリギリに届けられる資料が今日明日で仕上がるとは思えない。
しかも、それを担当してるのはジャプンの新人だった。
「謝罪と即対応してもらえるように……って無理だろ…」
間に合わない事は、横澤にだってわかっていた。
階段を昇る脚がさらに重くなる。
五階のフロアを突っ切りジャプン編集部を目指すが、途中で横澤の脚は止まる。
「ぁ…」
そこは…ジャプン編集部は……ゾンビの溜り場となっていた。
声を掛けるのも遠慮したくなるほど、そこにいる編集者たちには生気が感じられない。ただ、一様に忙しく動いている。
その殺伐とした光景に、横澤はそれ以上踏み込めなくなってしまった。
「…校了日だ」
カレンダーを思い出し、舌打ちが出た。
編集者の顔色がゾンビなのも頷ける。
このどうする事も出来ない状況に、横澤は奥歯を噛み締めた。
これではデータを催促する事なんて出来やしない。
普段の横澤ならば、どんな状況でもお構いなしに堂々と突入していくが、今日はそれが出来なかった。自分が正しいと思って行動する時とは違う。
けれど、時間が迫っている事に代わりはない。こんな所で足踏みしている場合ではなかった。
まずは編集長。
謝罪と説明をしなければならない相手を探すが、デスクには桐嶋の姿が見えない。
横澤は編集部を見渡し、桐嶋の姿を探した。
「横澤?」
「……ッ」
背後から掛けられた声に心臓が跳ね上がる。
振り返ると、原稿を抱えた桐嶋が立っていた。
ちょうど出先から戻ってきたところなのだろう。
「ぁ…」
お互い忙しくしていた所為で、数日ろくに顔も合わせていなかった。
久しぶりに見た桐嶋は少し疲れているように見える。
校了日だからか、いつも飄々としている雰囲気もわずかに殺気立っていた。
「どうした?」
「いや……その」
言葉が続かなかった。
桐嶋の顔を見たら急に胸が苦しくなった。
それに、状況を説明しなければならないのに、喉の奥が何かが詰まったように声がうまく出てこない。
喋りたいのにそれを止めようする何かがあるようで……。
思うように出来ないもどかしさに、横澤は顔を上げていられなかった。
拳を強く握り締める。
「ちょっと来い」
「…桐……っ」
握り締めた拳が反射的に開いてしまう程、強く手首を掴まれた。
引きずられるようにして空き部屋に押しこめられる。
会議室のようなその部屋は、机と椅子があるだけで事務的なものだった。二人分しか置いていない椅子が、その部屋の許容人数を物語っている。
「入れよ」
背中を押されて部屋の奥に促される。
横澤が机の前まで進むと、桐嶋は外側のノブに掛かっている札を裏返し、使用中に変えた。
編集部と繋がる扉が閉められ、そこは完全な密室となる。
「これで俺たちだけだ」
桐嶋がドアを背にしているから、横澤からは部屋を出ることは出来ない。
話をしやすくしてくれたのだろう。
有り難いが、それは逆に困る。
横澤は心の中の葛藤を知られたくなくて、隠すようにさっきまで掴まれていた手首を握った。
さっき、何を伝えようとしていたのだろう。想像するだけで恐ろしい。
少し冷静になって、さっきの自分を思い返した。
情けねぇ……。
桐嶋に泣き付きにきたわけではないのに、その顔を見てしまったら自分の中の弱さが出てきてしまった。
今自分は営業部の責任を取りに来ているのだ。普段偉そうにしている癖に、こんな時ばかり甘えたいと思ってしまった自分が許せない。
横澤は桐嶋の靴に視線を向けたまま、なるべく冷静に見えるようにと言葉を紡いだ。
「来月のジャプンのフェアの件なんだが…」
声が震えないか、それだけに気を配って話していると、両肩に桐嶋の手が触れる。
「何があった?」
「……ッ」
桐嶋の表情は仕事中のクールなものだった。
校了日にこんな所で時間を食っている場合ではないだろう。早く仕事に戻りたいはずだ。
けれど、肩に触れてくる手はどこまでも優しく、責任と後悔で沈み込む横澤を強く包み込んでくる。
横澤は意地を張るのを諦めた。
状況を説明すると、桐嶋は黙り込んだまま天井を見上げてしまった。
そして、わかった……と一言呟いて部屋を出てしまう。
そのまま、横澤は桐嶋にエレベーターまで連れていかれ、営業部に戻るように云われた。
「いつも通り仕事してろ。暴れ熊が沈んでたら他の奴らも不安になる」
そう云われても、普通に出来たら苦労はない。
責任を取りに来たはずなのに、これでは泣き言を云いに来ただけではないか。
自己嫌悪でどうにかなりそうだった。