12/21の日記

19:01
あの世 悩むより今を大切に
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子どもたち、私は、先日鎌倉(神奈川県)に行ってきました。縁があって、建長寺の山内をただひたすら歩き回りました。禅堂へと続く山道、息を切らせながら登りました。登りつめて、後ろを振り返ると、だんだんと続く石段に、てんてんと、しかも深く彫り込まれて続く足跡が見えました。数百年に及ぶ修行僧たちの、信仰への想(おも)い。合掌し、お辞儀をしました。それからは、ただ足もとだけを見つめて、山内を歩きました。山門の、本堂のすり減った敷居、私は、合掌しました。

 その後、私は、建長寺での、死生観についての学習会に参加させていただきました。多くの僧侶たちが、必死にまじめにこの問題について学んでいました。学習会のあと、質疑応答の時間がありました。講師の大学の先生に、多くの若手の僧侶が熱い問いを投げかけていました。その中の一つの問いに、私は、はっとしました。「あの世があるのか」という問いでした。この問いは、私の元にもたくさん来ています。子どもたち、君たちは、どう考えますか。これから、私なりの考えを書いてみます。

 子どもたち、私は、あるかもしれないし、ないかもしれないと考えています。また、あればあったでいいし、なければないでしょうがないと考えています。いかんせん、死んでみなくては、わかりません。

 君たちの多くは、それは答えになっていないと、私を非難するかもしれません。それでは、きっぱりと答えましょう。私は、あの世の存在を問うことや、考えること自体が、無駄だと考えています。これを読む君たちも、私も、今を今生きています。これだけが確実な事実です。私たちにとって、大切なのは、唯一確実な今を、どう実りあるものにして生きるか、ということです。変えることのできない過去にとらわれ、その亡霊に悩まされて、今を汚すことや、究極の未来である、あの世について、日々悩み、今の大切な時間を浪費することは、もったいないと考えています。

 子どもたち、もう一つ私の考えを書いておきます。それは、死をもって、私たち一人ひとりの人間は滅びるのかという問いについてです。私は、いつもこう答えています。滅びるし、滅びないと。私を例に取れば、水谷修という一人の人間の存在や自我意識は、完全に滅びるでしょう。でも、私のからだが焼かれたあと、煙や灰となって散っていく私の肉体は、花木や微生物の糧となり、新たな命の中に生き残っていくだろうと考えています。地球のすべての生命体は、この繰り返しの中で生きてきました。これが、私たちの定めです。子どもたち、ただひたすら、今を生きよう。たくさんの汗と優しさをふりまいて。

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