11/23の日記

23:30
本当の愛とはただ与えぬくもの
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 子どもたち、「愛」とは何でしょう。子どもたち、君たちは、きっとだれかから「愛してる」と言われると、嬉(うれ)しいはずです。受信したメールに、「愛してる」と書いてあれば、こころがときめくでしょう。でも、ここに愛はあるのでしょうか。女の子たちに聞きたいことがあります。もし、だれかから「君のからだが欲しい」と言われたら、嬉しいですか。受信したメールに、「君のからだが欲しい」と書いてあったら、こころがときめきますか。私は、今、君たちが、特に多くの男の子たちが、「愛してる」ということばを使うとき、その奥に、この「君のからだが欲しい」という欲望を込めているように感じています。

 子どもたち、私は、今多くの子どもたちが、いや大人たちさえも、「愛」ということばを、とても軽く、それどころか、もて遊んで使っていると感じています。「愛」、とても重いことばです。これには、責任が必ず伴います。自らの人生を、報いを求めることなく、すべてを捧(ささ)げ、与え、そして相手のすべてを受け入れ、そして一生守り切らなくてはならないという責任が。いったいどれだけの人が、特に君たち子どもたちが、この重さを覚悟して、負って、「愛」ということばを使っているのでしょうか。哀(かな)しくなります。

 「愛」、狭い意味での、個々の人と人との間の「愛」とは、何でしょうか。私は、こう考えます。一組の人間が、お互いに好感を持ち、そして、お互いを必要とし、手に手を携えあい、助けあい、優しさを配りあい、支え合って、日々を、生き抜いていく。そして、振り返ったときに見えるものが、「愛」なのだと。子どもたち、「愛」は語るものではありません。生きるものなのです。報いを求めることなく、ただ与えぬくものなのです。

 子どもたち、私が今回、「愛」について書いたことには、理由があります。実は、9月に私の親友が亡くなりました。仏門の僧侶でした。立派な名僧でした。彼は、大学時代、熱烈な恋愛をしました。しかし、相手の女性には、すでに好きな人がいました。彼の恋愛は、実りませんでした。彼は、失意の中、僧籍に入りました。そして、一生を独身で過ごしました。彼が、京都の寺に入る前日、私は、彼と飲みました。その時の彼のことば、忘れることができません。「水谷、俺(おれ)の愛は実らなかった。でも、それでいい。それでも、俺は、彼女を愛してる。愛し続ける」。彼は、ずっと、愛した彼女と彼女の夫の、良き友でした。彼らの娘と息子の名前は、彼がつけました。お葬式では、彼女も夫も子どもたちも、泣き続けていました。私は彼にそっと言いました。「ありがとう。お前は、俺に本当の愛を教えてくれた」。子どもたち、本当の「愛」を、求めよう。そして、それを、生きよう。

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