走り書き

□哀れな道化師と愚かな喜劇
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「だから何で妓楼などに会試直前の今行く必要があるんだっ!?」
「うるさい。ぎゃーぎゃー喚くと顔布が取れて通行中のじじばばがひっくり返るぞ」
「ぐっ…」

悠舜の前方では年下の友人二人が舌戦を繰り広げていた。

(「ばかですねぇ、本当に……」)
心の中のため息混じりの呟きはより年の離れた傲岸不遜な男に対するものだ。

一言、「傾国の琵琶姫とやらはお前の顔にも動じないかもしれないから、会えば気が落ち着くかもしれない」と。
もっと言うと、
「周りがどんな大仰な反応をしようがお前はお前なんだから気にしなくていい」とだけ言えばいい。

(「だけどそれすらわからないんですよね、貴方は…」)

天つ才をもつ黎深。
本当の頭の良さだけなら自分など足下にも及ぶまい。
なのに彼がこんなにも不器用で間違いばかり犯すのが時たまおかしくて堪らなくなる。
愚かな愚かな紅家の男。

黄昏の空に真紅の陽が落ちていく。

かつて自分の祖先が仕え続け、あの日、自分たちを裏切り見捨てた一族の色。

他者を徹底的に排することで自分の愛した世界だけを守り続ける、その残酷さと表裏一体の溺れる程の愛。
その中に入れてもらえる者と、弾かれるモノ。


愛の反対は憎悪ではなく“無関心"なのだと。
あの日、主君たる彼との初めての邂逅で思い知らされた。
あの美しい李園で彼は一度も自分を見てはくれなかった。
彼の世界に自分は影すら存在しなかった。


不意に黎深が振り返り悠舜を見た。
「悠舜、大丈夫か」
夕暮れ時、人通りが繁くなったために自分の歩きにくさを心配しているらしい。
「大丈夫ですよ」
いつものように黎深が好きな“悠舜"を演じて、いかにも穏やかで善人らしい完璧な笑みを瞬時に張り付ける。

(「不思議なものですね」)
鳳珠や自分を気遣う彼をあの時の自分が見たらどう思うだろうか。
いまの自分は黎深にとって大切な人なのだろう。
もし悠舜が助けを求めれば、彼はすぐにとんできてその権力の全てを費やしてくれるに違いない。


想像してみたらどうしようもなく可笑しくて、自分の口が自然と皮肉げにつり上がるのがわかった。

まるで喜劇だ。
全ては10年以上前に終わり、もう手遅れなのだから。

「悠舜?」
再び黎深振り返り、とまどったような声で問いかけてきた。
深い思考に沈んでいた悠舜はその一瞬、かつてに引っ張られて“悠舜"であることを忘れ、“紅家当主"の彼を見た。

無防備なその姿。
そのまま数歩詰めれば。
その頸に手を添え、力を入れれば。

頭のてっぺんから爪先まで激しい衝動が駆け抜けた。
いや、本当はずっと前から。
黎深と親しくなればなるほど、ひどく渦巻くこの昏い感情の正体が知りたい。

春の雨のような静かな自分の心を掻き乱す、これは何?


愚かな主君への失望?
使い捨てにされたことへの憎悪?
いつまでも“鳳麟が誰か"彼が思い出さないことに対する苛立ち?


そのどれもがかつての自分には無縁の、あり得ないほどの激情。

(「自分がこんな人間らしかったなんて知らなかった」)

目の前の友人は奇妙な顔でこちらを窺っている。


ねぇ、黎深。
この激情は、何なのでしょうね。
 

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