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□幼い日の記憶。
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死ぬな、とよく知った声が聞いたこともないぐらい焦燥を含んだ声音で言った。
ぐらぐらと揺れる体の内側からじわじわと四肢へ痺れが伝わっていく。
ごめん、悪いけど本当に死にそうだ。
そう言おうと口を開いても出るのは浅い吐息ばかり。
目の前の忍装束を握りしめる腕にも殆ど力が入っていない。
何があっても右手に掴んだ密書だけは離すまいと集中して力を込めた。
空気の流れる感覚がゆっくりになっていく。
耳元で唸る風の音が聞こえなくなった頃、俺の意識は何処かに飛んでいたらしい。
最初にあいつに会ったのは、入学して半年が経った頃だった。
『潮江文次郎だ。』
『…食満留三郎。』
低学年の頃は今よりも組分けのことでからかわれていた。
阿呆のは組だなんだとからかわなかったのが、あいつと仙蔵だけだったのもよく覚えている。
それでもあの頃の俺は幼くて、い組だからと決め付けて自分から喧嘩を売ったんだ。
何を言ったのかは思い出せないが、結局は子供の悪口で、それに乗った文次郎も随分幼かったんだと思う。
売り言葉に買い言葉。
出会った日に喧嘩をして先生や伊作に叱られ、それでもまだ懲りずに顔を見る度に喧嘩を繰り返した。
いつからか殴り合いをしている俺達を見ても誰も止めなくなった。
それでも、極たまに喧嘩をしない日もあった。
気分が乗らなかっただけかもしれないし、何故喧嘩をするんだろうとお互いに疑問に思っていたのかもしれない。
それぐらい理由のない喧嘩だった。
理由がないと言えばおかしいかもしれない。
拳を交えているときは確かに怒りを感じているし、それにもしっかりした理由がある。
ただ、後になってよく考えてみれば殴り合う必要もなかったんじゃないかと思えてくる時ばかりだった。
「留さん!?文次郎!?」
「毒を仕込まれたらしい!早く治療を…!」
「わかった!…早く解毒しないと…、誰か新野先生を呼んできて!」
「私が行こう!」
「留さん、意識はある?僕のことわかるかい?」
「……っ。」
「文次郎、顔色が悪いぞ。お前も少し休め。」
「休んでいられるか!留三郎が…っ。」
「馬鹿者!お前に何ができるというのだ!保健委員会と新野先生に任せていろ!…心配しているのがお前だけだと思うなよ。」
「………みんな、同じだ。」
「…すまん、仙蔵、長次。」
「構わん。いいから早く休め。」
「………先生には、連絡しておく。」
「あぁ…頼んだ。」
留三郎!と、俺の名前を呼ぶ幼い声が聞こえた。
頭も悪く実技も得意ではなかった威勢だけのいい餓鬼だった俺は、上級生からのからかいの対象にもなった。
実技はとにもかくにも、元々苦手な分野の勉学は幾ら自分なりに努力しても全く実にならなくて、あまりの悔しさに何度も一人で涙を零した。
今思えば、勉強の仕方が悪かったような気がする。
泣き虫ではなかったと思っているが、一年生の頃は泣きそうになる日が多かった。
そういう日は必ず伊作が傍にいて、弱音を吐いているうちに「俺がしっかりしなきゃな」という気持ちになってくる。
俺よりもよく泣いた伊作に慰められるのも恥ずかしくて、涙は早々に引っ込んだ。
『…っふ…う…ふぇ…っ。』
あの時は、タイミングが悪かったんだ。
一年生と二年生合同で行われた実習授業は、学園と裏々山を往復する罠あり術あり武器ありの二日間に渡るサバイバルマラソンだった。
裏々山の到るところに隠されている札を、誰よりも多く集めて誰よりも早く学園に戻らなければならない。
他人の札を奪ってもいい、という先生の言葉を聞いた瞬間に、数人の二年生が顔を見合わせてほくそ笑んでいたのを、俺はしっかり見ていた。
『うわぁーん…怖いよ留さぁん…。』
『泣くんじゃない!泣いたらまたあの二年生に虐められるぞ!』
『で、でも〜…。』
『絶対何か企んでるはずだ!俺達が騙されなくても、他の一年生が罠にかかるかもしれないだろ!気づいた俺達がなんとかしてやらねぇと…。』
『…うん、やっぱり留さんは優しいね。よし!頑張ろー!』
『いきなり元気になったな…。』
『いいからいいから。あ、札発見!』
二人一組なんていう決まりはなかったが、いつもと同じように俺と伊作は二人で着々と札を集めていた。
二日目の昼までは、全部順調に進んでいたんだ。
そう、学園に戻ろうとしていた俺達の前に二年生が現れる、それまでは。
『ははっ、もう一人は逃げたか。』
『まぁいいだろ。私達の目的はこいつだけだし。』
『先生に告げ口されたらどうする?』
『しても大丈夫だって。札奪ってましたって言えばいいんだからな!』
『確かに。』
『おい、こいつ動かなくなっちまったぜ。』
『もうそろそろいいか…。よし、俺達も学園に戻るぞ。』
地に伏せた俺をもう一度ずつ蹴飛ばして、二年生の足音が遠ざかっていく。
好き勝手に嬲られた体は指一本動かすだけでも痛みを伴って、もう二度と動けないような気さえしていた。
伊作を逃がせたのだけが唯一の救いだった。
庇いきれずに何度か殴られてしまったみたいだが、走るのに支障はないだろう。
もし今の俺が走れたとしても、学園に着く頃にはもう日が暮れ時間切れになってしまうだろう。
それでも、また馬鹿にされるのが嫌で無理矢理体を動かした。
『……っ…。』
立ち上がることもできなくて無樣に地面を這って移動する。
痛くて、悲しくて、苦しくて、悔しくて、ボロボロと涙が零れた。
泣き声だけは漏らすものか、と強く唇を噛んで腕を動かす。
伊作が学園で待ってる、伊作がまた泣きながら俺を呼んでる。
そう考えると腕を止めることはできなくて、拭いきれない涙を止めることを諦めてただひたすらに腕を動かした。
どれだけ動いたかもわからない。
どれだけ移動したかも、どれだけ学園に近づいたかもわからない。
ただ、太陽が落ちたことだけしかわからなかった。
『ふっ…う…っ…。』
泣くな、泣くなと必死に言い聞かせて足を動かす。
いつからか立って歩けるようになっていたが、こんなに暗くなっていては失格したも同然だった。
そんな時に聞こえた声は、夢だとしか思えなくて仕方ないと思う。
『…っ、留三郎!』
『……しお…え…。』
『大丈夫か?』
『なんで…。』
『学園に戻ろうとしていたところで、穴にはまっていた伊作に会ってな。お前がピンチだ助けてくれと泣き叫ぶので探しにきたのだ。』
あ、伊作は仙蔵と一緒に学園に戻ったぞ。と、なんてことは無いように言われた言葉に息がが止りそうになる。
そんな、それじゃあ潮江は、まだ学園に一度も戻っていないことになる。
優秀ない組が実習失格なんてことは聞いたことがなかった。
『それよりも酷い怪我だな…誰にやられた?』
『……。』
『どうした?言うなと脅されているのか?』
『…違う。』
『何が?』
『別に、実習なんだから怪我ぐらいするだろ、誰のせいでもねぇよ。』
ただ情けない姿を見せたくなかった俺の精一杯の虚勢だった。
本当は声を上げて泣きたかった。
草の上で、傷が癒えるまで眠っていたかった。
誰かに助けてもらいたかった。
それでも俺は意地を張って、そんなことしか言えなかった。
その瞬間、バチンと大きな音がして脳が揺れる。
あいつに殴られたと気づいたのは、頬にじんわりと新しい痛みが伝わってからだった。
『…な…に…。』
『どうしてお前はわからないんだ!』
『……。』
『どんなに平気な振りをしても無駄だ。痛かっただろ!苦しかっただろ!悔しかっただろ!』
『別に…。』
『友達が酷い目にあって、なんでそいつに報復しようって思っちゃ駄目なんだよ!』
【友達】。
その言葉に、今度こそ本当に息が止まった。
そういえば、こいつが俺と視線があっても嫌な顔をしなくなったのはいつからだったろう。
こいつが伊作と仲良くなりはじめたのはいつからだろう。
立花や、中在家や七松と話すようになったのはいつだろう。
こいつが、俺のことを名前で呼ぶようになったのはいつからだったんだろうか。
『……ごめん。』
『なっ、なんだいきなり…。』
『ごめん。』
本当に俺は何一つわかってなかった。
あいつらと友達になったことすら気づいてなかった。
どれだけ殴り合っても、俺とあいつは友達だった。
『…もういい、早く帰るぞ。みんな心配してるだろう。…歩けるか?』
今までの俺なら、当たり前だ馬鹿野郎ぐらいの罵声を吐いていてもおかしくなかったし、それができるぐらいにまでは体は楽になっていた。
それでも俺は首を横に振った。
満足そうに頷いた文次郎の背中で、俺はこっそり涙を流した。
多分、文次郎は気づいていたと思う。
文次郎が振り向くことはなかった。
ただ、
『……無事でよかった。』
と、小さな声が聞こえただけだった。
【幼い日の記憶。 終】
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