【enigme‐エニグマ‐】

□とりあえずお仕置きは勘弁してください。
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暑い。
いや、熱い。
ただ夜道を歩いているだけなのに七月後半の気温は俺の身体の許容範囲を超えて、じわじわと汗が首筋を流れるのを感じる。
手に持っていたタオルで汗を拭うけど、そのタオルももう水を吸収しなくなる程度には湿っていて役に立ちそうにはなかった。

もう夏の甲子園の地区予選は始まっているのに、なんでレギュラーでもない二年生の俺があんな地獄の練習に参加しなきゃいけないんだろうと思ったけど、監督が言うには秋の大会には二年しか出せないから鍛えておくそうだ。
そんなこと言っても俺がレギュラー取れるとは思わないし、本音のところただきついだけだと思う。
練習なんて楽しくやれるもんじゃないけど、それにしたって限度があるよなとこの間スミオと会ったときにそんな話をした。

e-testが終わってから一年近くの時間が流れたけど、結局俺の【呪い】は消えてない。
でも、もうこの能力も使うことなんてほとんどないに近い。
前はあれだけ嫌だったのに、今じゃこの能力とスミオ達との関係だけがあのe-testが本当にあったことだと教えてくれる。

あれから、本当にいろんなことがあった。

俺やスミオ、来宮さんは二年生になって、二年生だった先輩たちは三年生になった。
もちろん、生徒会長も崇藤さんももう学校にはいない。
栗栖さんは生徒会長の功績があったのか、卒業者扱いされてなかったことも重なって今は三年生の階級バッヂと生徒会長のバッヂを付けて学校に通っている。
あんまり大きな声で言えるような話じゃないけど、九条院さんと水沢さんは付き合いだしたらしい。
そういうスミオも来宮さんとはもう公認カップルだし、二人ともそれを否定しないから本当に付き合いだしたんだと思う。
俺はと言えばそんな浮ついた話は全然なくて、羨ましいと思ったこともあったけど練習がきつくてそんなことはすぐに忘れてしまう。

「……。」

でも、どうしてかこうやって一人になったときは崇藤さんのことを思い出す。
怖い人っていう印象しかなかったけど、いろいろ助けられてしまった。
今でもはっきりと思い出すのはe-test終了後の帰り道。

偶然帰る方向が同じだった俺と崇藤さんは、何を話すこともなくただ黙々と歩いていた。

『……あ、あの、俺ここ、右なんで。』

『……。』

『え、と……おつかれさま…でした…。』

『待て。』

『え?』

振り返った瞬間に掴まれる右肩。
急に近くなる崇藤さんの顔。
そのまま何か柔らかいものが口に触れた。
すぐに離れたその唇は小さく動いたけれど、混乱していた俺の耳は機能しなくなっていた。
そのまま踵を返して進んでいく崇藤さんの後姿を見送る。
完全にあのコートが夜の闇に消えた時、俺の脚から力が抜けてその場に座り込んでしまった。

あのあと、どうやって家まで帰ったかさえも覚えていない。
それぐらいには混乱してたんだと思う。
唇への感覚は鮮明に思い出せるのに、最後の言葉が一言も思い出せない。
もしかしたら本当に聞こえてなかったのかもしれないけど、多分聞こえてたはずだ。
そう言い聞かせて何度も何度も思い出そうとしたけど結局思い出せないまま時間が過ぎていく。
結局今日も思い出せそうになくて、もうなんだかよくわからないけど考えるのも嫌になって、早く家に帰ろうと団地と団地の間の道を突っ切っていく。
少し狭くて暗いけど、ここの長い道を突っ切っていけば駅まで迂回しなくていいから20分は早く家に着ける。

そうやって楽なことばかり考えていた罰が当たったのか、俺は、俺の後ろから近づいてくる人影に気づくこともなくその人通りの極端に少ない道に入っていった。



「……ん……んっ…!」

「静かに…する必要はないな。ここの団地は過疎化でほとんど人がいねぇからよぉ…。少々大声出しても誰も来ねぇよ。……あぁ、悪いな。声、出したくても出せねぇよな。」

「……っ…!」

にやにやと質の悪い笑みを浮かべる知らない男。
道の中間あたりまできたところで突然肩を掴まれて、壁に押し付けられ、後はもう流れるような手捌きで動きを封じられてしまった。
大きな掌で両手首を頭の上で壁に固定されて、首にかけたままだったタオルを猿轡みたいに使われて声も出せない。
何が何だかわからなくて茫然とする俺の身体に目の前の男が手を伸ばしてきたので咄嗟に消えろと強く願う。
呪いのおかげで見えなくなった俺に男は驚いたようだったけど、思い切り鳩尾を蹴られて呪いが消えてしまった。

『これが変な力かよ…。でもお前バカだろ。思い切り手ぇ掴まれてる状態で消えたって何にもならねぇだろうが。』

そう嘲笑われて、自分の情けなさと息苦しさで涙が浮かんできたけど、それも生暖かい舌で舐めとられて引っ込んでしまった。

怖い。
ただそれだけしか浮かんでこない。
普通のカツアゲとかならまだよかった。
でもこの状況がそんな優しい問題じゃないことを教えてくれる。
だって俺の鞄は男に取られた時に興味がないように地面に投げ捨てられたままだ。
何をされるかなんてわからない。
でも、何か普通じゃないことをされるんだということだけはしっかりわかっていて、泣きそうになった。

「…やっと…やっとこの日が来たぜ…。」

「っ………んんっ…!?」

男の手には料理なんかに使われる小型の包丁。
ぞわりと背筋が粟立つ。
もう首を這う男の舌も、聞こえる荒い息も聞こえない。

それは、純粋過ぎる程の恐怖だった。

「なんだ…震えてんのかよ。別に殺しはしねぇ。…でも、強姦なんだから思い切り泣いてくれよ。」

強姦。
それは俺の体温を下げるには充分過ぎる程の威力を持っていた。
みっともないぐらいに震える体を抱きしめたい。
でもその腕は未だ拘束されたままで、知らず知らずのうちに涙が零れた。
鋭利な刃物がジャージの中に潜り込んで内側から繊維を裁ち切っていく。
元々そんなに厚い生地でもないから、お気に入りのジャージは簡単にボロボロになってしまった。

「……っ……。」

「…いいなその顔。もっと泣けよ。」

どうやらこいつは男の泣き顔で興奮する性癖を持っているらしい。
零れ続ける涙を舌で舐めると破れた服の隙間から男の手が潜り込んでくる。
肌を撫でる手に冷たい汗が流れるのがわかった。
気持ち悪い。
怖い。
そう思っているのに身体が石にでもなったみたいに動かなくて、ただただ泣くことすらできなかった。
現実を見たくなくて固く目を閉じる。

瞼の裏に浮かぶのはあの夜の帰り道。
何も話すこともなくて、あの人のことなんか怖いとしか思っていなかった。
でも、本当に、それだけだったんだろうか。

「(なんでっ…。)」

なんでこんな時に、あの人のことを思い出してしまうんだろう。
なんで俺は、あの人の最後の言葉を思い出そうと躍起になってたんだろう。
どうして、今こんなにあの人を求めてるんだろう。

「(………すど…さ…。)」

なんでどうしてなんて何度尋ねてみても答えなんて出るはずがなくて、涙でぼやける右目の端にあの人が映った気がしたけれど、すぐに目を閉じてしまった。
でも、それ以上男の手はどこにも触れることはなくて、腕を掴んでいた手もいつの間にか緩んでいる。
ついにその手も離れて、何かを殴る様な鈍い音がした。

「(……え…?)」

「何してんだ。」

「っ!?す、崇藤…さん…っ?」

「……。」

目を開けて一番に見えたのは相変わらずコートを着た崇藤さんで、その左手はさっきの男の胸倉を掴んでいる。
右手は固く拳を作ったままで、それで男を殴りつけて気絶させたことがすぐに分かった。
落ちていたナイフを簡単に折って、男と一緒に近くのゴミの山に投げ捨てる崇藤さんを見ていると、安心したのか驚いたのか、とにかく足に力が入らなくなってその場にへたりこんでしまった。
俯くと、ボロボロになってしまったジャージが目に入る。
さっきまでの出来事がようやく現実味を帯びて、背筋を凍らせるような恐怖にまた体が震えだした。

「……っ。」

「二度とこんな目に合いたくなかったら、道を選んで帰ることだな。」

「…っ、は…い…。」

自分の腕を抱きしめるようにして蹲る俺の前で、崇藤さんが溜息をついた音が聞こえた。
おい、と低い声が落ちてきて、顔を上げる前に包帯を巻いた手が胸倉に伸びてきて無理矢理膝立ちにさせられるような格好になった。
ボロボロと零れ続ける涙を伸ばした舌で舐めとられて、身体も思考もすべてが止まってしまった。
何の反応も示さない俺も意に介さず、いつかの帰り道と同じように崇藤さんとの距離が狭まっていく。

「………んっ…!?」

「………。」



息もできないような時間は、もしかしたら数十秒で終わったのかもしれないけど俺にとってはその何十倍にも長く感じた。

「っ…ぷはっ……。」

「……。」

「いっ…!」

お互いの唇が離れ、酸素を取り込もうと必死になる俺の喉に噛みついてようやく崇藤さんが俺の胸倉を離す。
支えを失った身体は当然地面に倒れてしまったが、酸欠状態の身体は起き上がることもできなくて、ただただ呼吸をし続けることしかできなかった。

「……っ……はぁっ……。」

息をするたびに、最後に噛まれた場所がズキズキと僅かに痛む。
もしかすると血が出ているかもしれないけど、今の俺にはそんなことを気にしている余裕はなかった。
息も絶え絶えな俺と違ってけろっとしている崇藤さんは、次は覚悟しとけよなんて理解し難いことを当然の様にのたまった。

「言っただろ。お前は俺のもんだ。」

「へ……。」

「次はこんなもんじゃ済まさねぇからな。」

なんて理不尽なんだ。
俺の意見なんて端から聞く気なんてないんだろう。
しかも【こんなもん】ってなんなんだろう。
俺はさっきのだけでもいっぱいいっぱいなのに、それ以上の何かがあるのかと思うと自然に口角が痙攣した。
首根っこを持って立たされて、目の前に俺のかばんが差し出される。

どうやって帰ろう。なんて呑気に考えている自分がいて、自分がこの人のことをどう思っているのかなんて問題にするのも馬鹿らしくなった。



【とりあえずお仕置きは勘弁してください。 終】



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