【enigme‐エニグマ‐】
□同じ名前、違う意味。
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遠くで犬の遠吠えが聞こえた。
ざぁざぁと雨の音しか聞こえない中で、その音はいつもより不気味に聞こえた。
「うぅぅぅぅ〜…。」
突然降り出した雨に慌てて近くの公園に逃げ込んだのはよかったけれど、暗いし寒いし、ちゃんと自分の塒に帰ればよかったと後悔する。
すでに濡れてしまったから今からでも帰ろうと思えば帰れる。
でも、元々水に濡れるのは苦手なのでせっかく雨を凌げるこの場所から動きたくなかった。
仕方なく木の根元にうずくまって眠ろうと目を閉じてみるが、濡れた身体は寒さを際立たせていて震えが止まらない。
それでも精一杯丸くなっていると、いつからか眠気が襲ってきて寝てしまっていた。
うとうととまどろむ意識の中で、バシャンと水溜まりを蹴るような音がした。
どれくらい寝てしまっていたのかはわからないけれど、まだ雨は強く降っているので大した時間は経っていないらしい。
それよりも、さっきの音が意外に近くから聞こえたような気がして、丸めていた背筋を伸ばした。
中途半端に寝ていたせいでもっと寒くなった気がしたけど今は音の正体を確かめる方が重要だった。
俺はもともと喧嘩なんてしたことないし、したくないし、できないし、犬なんかを見つけた時はいつも真っ先に塒に引き返す。
いつだったか塒の傍の空き地にずっと犬がいて、六日ぐらい何も食べなかったときもあるけど喧嘩や怪我をするよりはいくらかマシだった。
本当に死ぬかと思ったけど。
そういえば、ここのところ三日ぐらいご飯を食べてない気がする。
犬や他の猫を避けて移動しているから、あんまりゴミ捨て場に行けない(むしろ行きたくない)のが事実だった。
人に見られるのも嫌なので、真夜中に出歩くようにしているのも原因なんだと思う。
まだ正面から人と接触したわけじゃないけれど、塒の近くの公園で騒いでいる人とはあんまり関わりたくないと思った。
「にゃー…。」
こんなどこかもよくわからない場所で(塒とはそんなに離れてないんだろうけど。)犬に追い掛け回されるのは嫌なので、何なのかはわからないけど何かに見つからないように息を殺した。
ゆっくりと吐き出した息が真っ白になって消えていく中、公園に入ってきたのは大きな影だった。
背恰好からして人のようだけど、どうしてこんなところにいるのかがよくわからない。
普通は塒に帰るだろうし、その途中だったとしてもこんなところに寄り道はしないだろう。
俺なら一直線に塒に帰る。
それとも俺みたいに何か事情があるのかと木の陰からその影を見ていると、じっとし過ぎていたせいで体が冷えたのかむずむずと鼻の奥がかゆくなった。
堪えきれずに小さなくしゃみをしてしまうと、さっきの人が俺に気づいたのかこっちを向いてしまった。
逃げるかどうしようかと俺が悩んでいる間にすぐ傍まで近づいてきた人を見上げて尻尾と耳が垂れてしまうのが分かる。
フードの中から見える目は鋭くて、街のノラ猫達を思い出させた。
「う……。」
「……。」
何をするでもなく俺を見下ろしていたその人の目をずっと見ていると、突然目の前が真っ暗になった。
バサッと放り投げられた布は完全に俺を包んでしまって、何かの罠かと暴れていた俺がその布から顔を出せたのは大分時間が経ってからだと思う。
ようやく布から逃げ出せた時にはもうあの人の姿は無くて、雨も止みかけて薄明るくなってきた中でしっかりと見た布は、あの人が着ていた服とよく似た形をしていた。
「………ぬくい…。」
それから数日後、俺がもう一度あの人を見たのは真夜中に餌を探して街を歩き回っているときだった。
どたばたと騒がしい音が気になって路地裏に行くと、今にも殴りかかってきそうな目つきの怖い人たちに囲まれたあの人がいた。
思わず近くにあったゴミ箱の陰に隠れてしまったけど、あの人は大丈夫なんだろうか。
すごく強そうなんだけど、一度に殴られたら絶対に無事じゃいられないと思う。
そっとゴミ箱の陰から覗いてみると、怖そうな人の一人が何か鈍く光る棒を振り上げていたところだった。
どうしよう、と思うよりも、驚いて固まるよりも前に、自然に体が動いた。
体に巻きつけていたあの人にもらった布を頭からかぶって、全速力で駆け出す。
その勢いのまま飛び跳ねて、今にもあの人を殴ってしまいそうだった怖い人に思い切りぶつかった。
「なっ!?」
「なんだ!?」
「餓鬼が突っ込んできやがった!」
倒れる怖そうな人の上から退きながらまた後ろに飛び跳ねる。
ガツンと硬い地面を何かで殴る音がして、もう一度飛び退いた。
「ぼっ……ぼうりょく反対!」
「は?」
「い、いたいのダメなんだからな!殴られたらいたいだろ!」
「まぁそりゃな…。」
「だからいたいのダメなんだぞ!」
「なんだこのチビ…。」
「どうする?」
「ほっといたらいなくなるだろ。」
「そうだな。」
勇気を出したのに結局あの人の方を向いてしまった怖い人達に、精一杯叫んだり飛び跳ねたりしても全然効果がない。
そんなことをしている間に怖い人たちを挟んで向かい側にいるあの人と目があって、布の中で耳がピンと立ったのがわかった。
そのままじっとしていると、俺を見ていた目が笑うように細められる。
本当に笑ったわけじゃないけれど、あの人のくれた布が急に暖かくなった気がして被っていた布をぎゅっと握りしめた。
突然、轟々と大きな音で風が通り過ぎて行った。
目に砂が入って目を閉じると、風の音しか聞こえてこない。
本当のひとりぼっちになったような気がして早く目を開けようと頑張ってみても吹き荒れる風はまた新しい砂粒を顔にぶつけてくるのでなかなか目を開けない。
ばたばたと布が激しく音を立てている。
ようやく風が吹き止んで、目を覆っていた手をどけると、俺の前にはあの人が立っていた。
「………?」
あの怖い人たちはどうしたんだろう、と不思議に思っていると伸びてきたあの人の手が俺の首根っこを掴んで持ち上げた。
ぶらぶらと宙吊りになっている体が揺れて、目の前にはあの人の顔が見える。
特に何を話しかけてくるわけでもなく、俺も黙ったままじっと視線を合わせていた。
最初に会った時と同じ、肉食動物みたいな鋭い目。
その獰猛な色の奥に、少しだけ優しい色が見えたような気がして、そっと手を伸ばしてみる。
伸びた爪で傷つけないように、そっと掌で頬に触れると優しい色が増えたような気がした。
嬉しくなって、そのまま手を伸ばして首に抱きついてみる。
掴まれていた首を離されるが引きはがされるわけでもなかったのでそのまま右肩の上に乗ると、いつもと全く違う景色が見えた。
「おい。」
「にゅ?」
「名前はあんのか。」
「もと!」
久しぶりに口にした自分の名前に、昔の記憶が蘇る。
生まれたばっかりのころ、一緒に遊んだ人間の女の子がつけてくれた名前だ。
なにかいろいろ難しいことを言ってたような気がするけど、あんまりはっきりとは覚えていない。
『貴方には名前がないのね。』
『にゅ?』
『それなら私がつけてあげるわ。』
『?うん!』
『そうね…。【心】なんてどうかしら。貴方はすごく優しいから。』
『もと?』
『そうよ。【こころ】なんてつけたら女の子みたいでしょ?』
『ふーん…。』
『あ、そろそろ帰らないといけないわ。じゃあね、心。』
『うん!またあした!』
そう言って帰って行ったあの女の子は、何日待っても遊びに来てくれなかった。
きっと何かあるんだろうと思っていたけれど、あの女の子はどうしたんだろう。
そんなことを考えているとぼーっとしてしまっていたみたいで、急に黙り込んだ俺を不思議そうに見ているあの人がいる。
何か話題をそらそうと、とっさに疑問が口から飛び出た。
「名前は?」
「……タケマル。」
難しそうな名前だ。
ぶつぶつとあの人の名前を呟いていると、ひょいと肩から降ろされて地面に足がつく。
そのまますたすたと路地裏から出ていこうとするあの人に、もう帰るのかと首を傾げていると、振り返ったあの人が何かを呟いた。
轟々と烈しく吹き付ける風が音を攫っていく。
でも、声が聞こえなくても俺にはわかった。
『…いくぞ、モト。』
どこに。なんて聞かなくていい。
「たけまるさんっ!」
だって俺は、どこにだって行けるんだから。
【同じ名前、違う意味。 終】
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