【enigme‐エニグマ‐】
□寂しさなんて塗りつぶして。
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目を覚ますとそこはちゃんと俺の布団の中で、まだ部屋は薄暗く日が明けかけていることがわかった。
野球部の練習もない日曜日にこんな早くに起きたのは初めてだ。
まぁ起きたと言うよりは目が覚めたって言った方が正しい気がするけど。
「………何時だっけ…。」
十時だった気もするし九時だった気もする。
約束した日はあまりの緊張で何を話したかもよく覚えていない。
久しぶり、とは言ってもたった二週間しか間は空いていないけれど随分長かった気がする。
寂しいと本人の前で言ったことはないけれど、スミオに泣きついてしまうことも何度かあった。
「いや、会えるだけでも十分なんだけど…。って俺さっきから何言ってんの。」
考え事をしているとどうしても多くなる独り言を止めようと軽く首を振って被っていた布団を剥いだ。
肌寒い程度の空気が外気に晒された二の腕を冷やして思わず身震いする。
今夜は長袖を着たほうがいいのかと考えながらも半袖に短パンという昨日眠った時のままの格好でベッドを降りてキッチンに向かった。
裸足なので、フローリングと触れ合うとぺたぺたと音を立てて静かな廊下に霧散していく。
夜中になってから寝た割に早く起きたので眠り足りないような気がする。
自然に出る欠伸を喉の奥で噛み殺しながらドアを開けると、ダイニングと繋がっているリビングから賑やかなテレビの音が聞こえてきた。
我が家の女陣は今日も朝から元気らしい。
「…何してんの?」
「見てわかりなさいよ!新しいダイエットなの!」
「……へー…。」
一番上の姉は最近お腹が出てきたことばっかりを気にして片っ端からダイエットを試している。
持続させた方が効くんじゃないかと思ってはいるけれども、少しでも文句を言おうものなら殴られるから何も言わない。
テレビの中の人に合わせて同じように体を動かしている姉貴の横で、我関せずという言葉を具現化したようにソファに寝転んでゲームをしている二番目の姉貴がいる。
最近はアクションゲームばかりをやっているらしく、激しい乱闘のような音が聞こえてきていた。
俺の視線に気づいたのか、それとも偶然なのか姉貴が唐突に顔を上げる。
思い切り視線がかち合った後、しばらく無言で見つめあっていると突然姉貴がどこからか同じゲーム機を取り出した。
「モトもやる?」
「いや、いい。」
「大丈夫だって。手加減してあげるから。」
「いいって!…というかなんでそれ二つも持ってるんだよ。」
「金さえあれば何でもできるのが現代です。」
「……あぁ、そう。」
真顔でえげついことを言ってまたゲームに没頭し始めた。
我ながら個性的な姉貴達だと思う。
「あら、今日は珍しく早起きなのね。」
この間破いてしまった俺のシャツ(母さんごめん)を繕っていた母さんが声をかけてきた。
朝ご飯はキッチンにあるから、と言われて台所に行くと一人分の朝飯が用意されていた。
電子レンジを操作して料理を温めながら話を続ける。
「俺だってそんなに夜更かししてるわけじゃないって。」
「そう?」
「今日はなんか目が覚めただけだから。」
あ、この牛乳の賞味期限明日だ。
「ふーん…今日、何か楽しいことでもあるの?」
「ぶほっ!?」
「「え?なになに?」」
「なんでもないから!」
えー、と不満げな声を漏らしながら顔を引っ込める姉貴達を追い返してにこにこと変わらずの笑顔を浮かべている母さんを振り返る。
思わず吹き出してしまった牛乳を布巾で掃除しながら我が家最大の敵の本性を見た気がした。
「………いや、別に何もないけど。」
「本当に?」
「……本当だよ。」
「嘘ね。」
「本当だって!」
「嘘よね?」
「………はい、ごめんなさい。」
「よろしい。」
座りなさい、と目の前の席を指されて仕方なく座る。
目の前でにっこりと笑みを浮かべながら腕を組む母さんを見ないようにしながら朝飯を平らげた。
「…ごちそうさま。」
「お粗末さま。それで?何があるの?」
やっぱり最大の敵は見逃してくれそうにない。
ついにはゲームやダイエットに熱中していた姉貴達まで会話に参加し始めていつの間にか完全に逃げられなくなってしまっていた。
ぎゃーぎゃーとしつこく追及してくる三人をあしらっているうちに、約束の時間の10時になってしまった。
「うわっ!もうこんな時間!?」
「ん?どうしたのほら早く言いなさいよ。」
「隠し事はよくない。」
「あら?お客さんみたいね?」
「俺が出る!俺が出るからっ!!」
もしかして彼女?と三人がにやにやと冷やかす横でカメラ付インターフォンを確認する。
あの人が律儀にインターフォンを押すところなんて想像できないけど(本人に言ったら怒られそうだ)やっぱりその辺は普通らしい。
液晶にはポケットに手を突っ込んだままそっぽを向いて立っているタケマルさんがいて、今出ますと声をかけてから玄関へと走った。
「はいはいはいっ!」
「……お前は朝から元気だな。」
「え?い、いや…あはははは…。」
どれだけ焦っていたのか、勢いよく家を飛び出るとタケマルさんに呆れた様に見られた。
そのまま会話が途絶えてしまってどうしようかとさらに焦る。
玄関を開いていたままだったせいか、いつの間にかからかいにきた姉貴が俺の頭を掴んで後ろに思い切り引いた。
「うわっ?!」
「んー…?何?お友達?」
「せ…先輩だよ…。」
「ふーん…。」
じろじろと無遠慮に観察する姉貴にタケマルさんが眉を寄せたのが見えて慌てて止めに入る。
その後ろからせんべいをかじっているもう一人の姉貴も様子を見に来た。
「へー、それが例の?」
「例のってなんだよ!あーもう!絶対入ってくるなよ!」
何かを言われる前に先輩の腕を掴んで二階の自分の部屋まで連れて行く。
下から姉貴の怒鳴り声が聞こえた気がするけど完全に聞こえなかったことにした。
全力で走って、部屋に入るとすぐに鍵を閉める。
耳を澄ましても姉貴達が階段を上ってくる気配はない。
安心して肩を撫でおろして、ようやく今の俺の格好に気付いた。
「げっ…!」
「どうした?」
「い、いや…。」
服は起きた時のまんまだし、もちろん部屋も起きた時のままだ。
汚いとは言わないけど、綺麗とも言えない。
せめてベットぐらい整えて置けばよかったと後悔する俺を他所に、部屋を見回したタケマルさんがテーブルの前に座った。
とりあえず飲み物でも持ってこようと部屋を出ようと鍵を開けた瞬間、向こう側から突然扉が開いてすごく笑顔の母さんが顔を出した。
「いらっしゃい。モトが学校の先輩を連れてくるなんて初めてね。」
「なっ…!なんで入ってくるんだよ!」
「いいじゃないの別に。下にお茶とお茶菓子用意してあるから、取りに来てくれる?」
「あーもう…わかったよ…。…じゃあ、すぐ戻ってくるんで。」
「あぁ。」
「いってらっしゃい。」
にこにこといつも以上の笑顔で俺を見送ろうとする母さんの腕を掴んで一緒に降りる。
えー、と姉貴達と同じ反応をする母さんは、二人きりにしたら何を言い出すか分からない。
絶対に部屋に来ないように釘を刺しておいて用意されていたお茶を持って上がる。
階段を上っている途中で、姉貴の怒鳴り声のような声が聞こえた。
「え!?」
どうやら声は俺の部屋から聞こえているらしい。
サァッと血の気が引いていくのを感じながら慌てて部屋の前に走り耳を澄ませてみた。
「だーっ!また負けた!」
「…姉さん、相変わらず弱いね。」
「あんた達が強すぎるだけだから!今の、ちょっといいとこいったと思ったんだけどな…。」
「今のは右からいかないと。」
「いやいや、そしたらこいつの射程範囲に入るじゃん。」
「まぁあたしが遠距離派でこの人が近距離派だから、結局どこにいても負けるんだけどさ。」
「最初から勝ち目ないの!?」
「次は二人対戦しましょうよー。」
「もう私は眼中にないのかよ!………モト?何盗み聞きしてんの?」
なんでわかるんだよ!
「いやここ俺の部屋だから!」
「あ、モトおかえりー。」
「何してるんだよ!?」
「「ゲーム。」」
あっさり答える姉貴達の手元とタケマルさんの手元にはさっきまで姉貴がやってたゲーム機と同じものがある。
驚く俺を他所にまたゲームをやり始めた姉貴達に、ついに俺の中の何かが切れた。
「もう…邪魔すんなー!出てけー!!」
「モトうるさいよ。」
「はいはい。邪魔してごめんねー。」
「「じゃ、ごゆっくりー。」」
勢いをつけて扉を閉めてついでに鍵も閉める。
鍵を閉めたままの恰好で荒れた息を整えていると、左手に持っていたお盆が手から離れた。
後ろを振り返るとタケマルさんがお盆を持っている。
がしがしと少し乱暴に髪を撫でられて、この人なりに気を使ってくれていることがわかった。
最初のころは力加減が分からないのか首から変な音がして痛みに悶えたりしたけど最近ではそういうこともなくなった。
「(あれは本当に痛かった…。)」
筋が違えたとも違う痛みに一日中半泣きになっていた時もあった。
そんな俺を見ていつも通りを装っているタケマルさんが微妙にしゅんとしているのを見るのも申し訳なかった。
テーブルを挟んで床の上に座って、いつもと同じように軽い世間話をする。
いつもドキドキしたまま話しているからどもりっぱなしなのに、今日は自分の家にいるからか特に緊張することもなく自然に話せている気がした。
それなのに、誰かが階段を上って来ると部屋のドアノブを回した。
鍵はしっかりしてあるのでがちゃがちゃと何度かノブが動いた後でようやく声がかけられる。
「モトー。」
「…なんだよ。邪魔しないでくれよ。」
「はいはい。ちょっと出かけてくるから、留守番よろしくね。」
「姉貴達は?」
「私と一緒にいくから。じゃあタケマルさん、ごゆっくり。」
なんで名前を知ってるんだとツッコむ暇もなく階段を下りる音がする。
父さんは仕事だから結局今は俺とタケマルさんと二人きりってわけで…。
「(え、なにこれ。)」
今日はどこにも出かけないと言っていたのに出かけて行った女三人を軽く恨む。
多分嫌がらせのつもりで作ったシチュエーションではないと思うけど、今の俺にとっては緊張の種にしかならない。
また普段通り喋れなくなってしまった俺を一瞥してタケマルさんが小さく息を吐く。
こっちにこいと手招きされて、びくびくしながら隣に座ると突然肩を掴まれた。
驚くより先にそのまま引き寄せられて、ぽすんと広げられた腕の間に収まってしまった。
う?と間抜けな声を出してしまった俺も気にせずに大きな掌が背中を撫でる。
「…。」
「?」
「……っ!?」
「??」
ようやく現状を理解して固まる俺に、タケマルさんも僅かに首を傾げて動きを止める。
でも俺はそんなことを気にする余裕もないぐらいにパニックになっていた。
そう言うのも、実は俺とタケマルさんは付き合い始めてから何ヶ月も経つのに恋人らしいことは何一つしていなかった。
滅多に会えなかったり、会えても外だったりといろいろ問題がある。
不満とは言わないけれど、それでタケマルさんは満足なのだろうかと何度も考えた。
俺だって、もし彼女が出来たとしたら、一緒に出掛けたり手を繋いだりしたいいろいろしたいと思うだろう。
そういう事に興味がないのかと思ったけれど、本当にそうならすごく特殊な人だと思う。
誰だってそういう年齢は疚しいことを考えても仕方ない時だろうから。
もしかして俺に魅力がないのかとネガティブになった時もあったけど、そんなことはないとスミオに一蹴されてなんとか持ち直した。
でも、あの時の悩みなんてなかったみたいに俺はタケマルさんに抱きしめられている。
いつになく早鐘を打つ心臓が痛かった。
「どうした?」
「ぅ…っ…。」
顔を覗き込んで来る瞳があまりにも近くて、思わず目を閉じてしまう。
ばくばくと心臓の音だけが聞こえてもうどうしたらいいかわからない。
俯いた俺の髪を撫でていた手がするすると下に移動していく。
掴まれた顎がぐいっと引き上げられて、え、と声を漏らした唇が何かに覆われた。
これが何なのか大体は分かっていて、どちらかと言えば確かめると更に恥ずかしくなりそうなので確認したくなかったけれど、事態を把握しようと反射的に目を開いてしまった。
「んむっ…!」
「……。」
目の前には予想通りタケマルさんの顔があって、初めての距離感にどう対処していいのかわからない。
慌てる俺を気にしていないのか、ぺろりと唇を舐めたタケマルさんがもう一度顔を近づけてきた。
逃げようと身体を退いても背中がベッドに当たって逆に逃げられなくなってしまった。
その後のことは、あんまり言いたくない。