連想異譚・壱
□君待つ宵に/以蔵Ver.
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夜稽古の度に、遠く廊下を歩む音が耳を掠める。
どんなに激しく木刀を振るおうとも、体位を変え目線を向けずとも、何時しか待ち望む合図と化していた。
彼女の訪れを知らせる、衣の擦れる微かな音。
是も因果なのだろう。
数え切れぬ程の修羅場に立ち、数え切れぬ程の剣戟を繰り返し、数え切れぬ程の人間を斬ってきた。
刀を手にすれば、全身の神経が末梢にまで研ぎ澄まされ、気の流れすらも断ち切る事が出来るようになっていた。
斬るべき存在としか認識しえなかった音。
だが、あの音は違う。
永に得る事など思いもしなかった、安らぎを与えてくれる存在。
初めて得た、護るべき存在。
今にして思えば、其は出逢った瞬間から己に定められた運命だったのかもしれない。
「お月見しようよ」
其の言葉に驚き振り返る。
無垢な瞳が真っ直ぐに俺を見上げている。
楽しそうにまくし立てる彼女の変化する表情に和む陽の部分と月に纏わる闇の過去に戦慄する陰の部分。
双方が、俺の心に刃を突き立てようとする。
その場に留まり続けるのが耐えられずに、俺は彼女に背を向けてしまった。
月は味方にも敵にもなる。
朔月であろうと望月であろうと、任務を果たす夜を選ぶ事は出来ない。
新撰組の鳴らす警笛の方向を見定めながら、光を避けて暗黒を疾走する。
是もまた己に科せられた運命。抗う事は出来ない。
否。
抗えないのではない。自ら立ち向かう事など最初から諦め、考えもしなかった。
今宵は見事な満月だ。
おそらく彼女は、龍馬達と月見の宴を催していることだろう。
俺は逃げてばかりだ。
新撰組からも。彼女からも。
己、自身からも。
寺田屋に帰り着いた。
周囲の気を探ってから裏の隠し戸より中へ入る。
中庭へ出ると、建物の片隅で柱に身を預けている彼女が居た。
こんな夜更けだ、宴はもう終わったのだろう。
では何故、此処に居るのか。
眠っているのかと近づくにつれ悟った。
長い睫毛が不規則に震えている。夢現の状態か。
燦々と降り注ぐ光は、まるで彼女を其のまま月の宮へと誘ってしまいそうに見えた。
「困ったなよ竹だな」
言葉が口を突いて出た。
跳ねる様に目を開けた彼女が、途端に泣きそうな怒り顔になる。
抗議の一声を上げて潤む大きな瞳を見た刹那。
胸の奥から湧き上がる愛しさを抑えきれずに、其の頼りなげな体を腕の中に捉えた。
月に攫われる前に、攫ってしまおう。
この想いが永劫に続くようにと。
結い髪に挿した萩の花が、美しく揺れた。
『我が妹子がやどの秋萩 花よりは実になりてこそ 恋ひまさりけれ』
「あの娘に逢うことができてから、いっそう恋しくなってしまいました」
(万葉集・作者不詳)