Novel

□貴方に笑顔の種一つ
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「…はい?あの掌議、今何て言いました?」

我が耳を疑い、ミスクはハ・インスに聞き返した。



学生最高位である掌議(チャンイ)、ハ・インス。
彼に睨まれた者は、まさに蛇に睨まれた蛙と化す。
その身は凍りつき、儒生としても終わりを宣告されたと同然の立場に陥る。
だから普通の儒生達はひたすら彼の機嫌を損ねぬよう、ごく平凡な学生生活を送っていた。
…ただし、それはあくまで『普通の』儒生の話である。



今この場でまさにインスの視線を一身に受けているチェ・チファンことミスクは、言われた意味がわからず目をパチクリさせ、ただポカンとしていた。
自分の言葉を理解できない相手に眉間の皺を深めたインスの気配を察し、取り巻き三人衆の一人イム・ビョンチュンが慌てて繰り返す。

「同じことを何度も言わせるな!だから今度の下色掌に、東斎からはお前を指名すると掌議は言っておられるのだ」

「はぁ…」

下色掌とは、生徒会役員とも云える斎任のうち、西斎と東斎からそれぞれ選出される若手代表の役職を示す。
しかし例年は、数名の候補者の中から斎会で選挙によって選出するのが常であった。
その上、西斎からは老論、東斎からは少論の名家が選ばれるのが暗黙の了解となっている。



突然そんな宣告をされてもミスクには腑に落ちない点ばかりで、頭には疑問譜が飛び交っていた。

「あの、僕は南人ですけど」
「知っている」

第一の疑問。
何を今更、と言わんばかりにインスに一蹴されてしまった。

「指名されたところで他の人は納得しないでしょう。東斎からは少論が選ばれるのが慣例ですから。選挙をすれば一目瞭然…」
「私は掌議だ。私の一存で選挙など意味をなさない物となる」

第二の疑問も一蹴。
…っておいおい、アンタの一存で慣例ひっくり返してもいいんかい。

「どうして僕なんですか?掌議と同じ老論のイ・ソンジュンも東斎にはいますが」

第三の疑問。
彼を敵視しているインスに対してソンジュンの名を出すことに一瞬ためらいもあったが、これが一番大きい疑問だった。

老論以外の派が居を占める東斎には、インス一派の目が届きにくい。
慣例に逆らってでも取り込むとすれば、老論のソンジュンが一番適しているはずだ。
もっとも、例えそのような提案をされても、ソンジュンならお得意の理屈を並べて速攻却下するだろうな、とミスクは内心わかっていたけれど。



その質問も予測していたようで、特に機嫌を損ねる気配もなく(とは云っても機嫌良さそうな顔も見たことないが)インスは淡々と答える。

「西斎の下色掌が老論である以上、東斎からも老論を選出する訳にはいくまい。本来であればイ・ソンジュンは西斎の下色掌となるべきだが、奴自身が西斎に移る気が微塵も無いらしいからな」

一瞬、苦虫を噛み潰したような顔になったのは見なかったことにする。
しかし、だからと云って何故自分??
訝しげなミスクの表情を読み取り、インスは言葉を続けた。

「お前が一番適任なのだ。南人とは云え領議政の息子だからな。家門で異を唱える者はいないだろう。この点が同じ南人のキム・ユンシクとの大きな差でもある」

「…キム・ユンシクを貶める比較は不愉快です」

親友を槍玉に挙げられ、キッとインスを睨みつける。
ビョンチュンが「生意気な!」と拳を振り上げようとしたが、インスの無言の制圧で慌てて後ずさった。

「まぁ聞けチェ・チファン。この成均館は儒学の教えを学び、正しく国政が行われるよう導く義務があることはお前も重々承知しているだろう?だが西斎と東斎の統率すら難しいこの現状に如何程の意味があると言えるのか」

「……」

強硬派老論の筆頭を父に持つアナタが言っても説得力に欠けますが。ソンジュンならともかく。
口を突いて出そうになったツッコミをなんとか胸の内に留め、続きを聞く。

「すでに斎任に就いているヨンハとお前で東斎をまとめ、私との橋渡しを務めるのだ。私の言うことならば聞く耳持たぬイ・ソンジュンも、お前の言うことなれば違うだろう。キム・ユンシクやコロも然り」



…えーと、要するに。



「とりあえず僕を手なずけて、はみ出し者をまとめて転がそうと?」

ピクリ。
まず間違いなくそういうことなのだろうが、ミスクの直球の言い方が気に食わなかったようで、インスの片眉が吊り上がったのがわかった。
ビョンチュンが今にもミスクに飛び掛かろうと機会を伺っているが、未だお許しが出ないため、キョロキョロと困ったようにインスとミスクを見比べている。

「あ、そういうことだったんですかさすが掌議!俺てっきり、コイツ男のくせに綺麗な顔してるから傍に置いてやろうってことかと思ってました」

ポンッと納得顔で手を打つソル・コボンを、ギロリと本日一番の殺気で睨みつけるインス。
今の彼ならきっと目だけで人を殺せるに違いない。
相変わらず空気の読めない相方を、先程から拳のやり場に困っていたビョンチュンが一発お見舞いすることでひとまず収まった。


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