バーテンダーな僕

□きっかけの金曜日
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夢をみる。体調を崩すといつもそう……





地に倒れ伏す2つの影
月明かりが照らし出す鮮やかすぎる赤

私は1つの影に駆け寄って
ぎゅっと身体を抱きしめる

溢れる涙……
止まらない血とともに彼の身体からぬくもりが失われていく

離れたくないのに……
願ったのはこんな結末じゃなかったのに……

いくら泣き叫んでももう叶わない……

光を失った翠の瞳

いつまでもいつまでも一緒に……
終わりなんて知らないままでいたかった





起きた時には何も思い出せない。
次から次に溢れ出す涙が頬を濡らすだけだった……





 ***






今日は金曜日。


朝起きた千鶴はくるまっていたブランケットの中で嫌な寒気に襲われた。
またあの夢をみたのだろうか……涙が頬を伝う感触がする。
恐る恐る重い瞼を開けば、やけに物の輪郭が歪んで見える。
自分のことなのに現実味がなく、どこかぼんやりする頭で1つの結論に思い至った千鶴はため息をついた。


「風邪…………」


吐き出す息は熱を帯びていて、言葉に出して自覚した途端に身体はすごく重く感じられた。


千鶴がこうなった原因ははっきりしている。
原因は昨日の夕方――
いくら夏とはいえ、雨に当たった身体はだいぶ冷えていたが、バスタブに水を張るのも億劫で、シャワーを浴びるだけで済ませてしまった。
その後、髪も濡れたまま、崩れるようにベッドに倒れ込み、後から後から頬を伝う涙とともに、いつの間にか寝入ってしまった。


「参ったなぁ……どうしよう……」


まだ鏡を見ていないので確かなことは言えないが、泣き寝入りした上に、あの夢を見て朝起きたときも泣いていた。
瞼が重く感じられるのは、おそらく熱のせいだけじゃないはずだ。
本音を言うと、今日は会社を休んで寝ていたい所だが、今日は大事なプレゼンがある。
しかもこうなってしまった原因が全て自分にある以上、休むなんてことは絶対にできない。


それに……


重い身体を起こしながら、覚束ない足取りで千鶴は洗面所へと歩き出す。


昨日、とっさに『また明日』と、告げていた。
昨日の今日で、まだ完全に気持ちの整理がついたわけではなかったし、一方的な約束だから、守る必要なんてないのかもしれない。
しかし、千鶴は頭の片隅で、どうしても今日、彼に会いに行かないといけない、そんな予感がしていた。


そのためにも、まずは会社に行かないと。
冷やしたタオルで腫れぼったい目元を冷やしつつ、千鶴はのろのろと身支度を始めた。





 ***





大事なプレゼンも何とか滞りなくこなすことができ、千鶴が会社を出たのは午後6時。
千鶴の所属する部署は、社内でも1,2を争うほど忙しく、残業も多い。
本来なら、こんな時間に退社できるはずがないのだが、同じ部署の同僚とお千に押し切られ、早く帰って休むように、という指令と共に早々と帰宅させられてしまった。
帰る頃には、今日1日の無理がたたったせいもあり、千鶴の体調は良くなるどころかさらに悪くなり、足元はふらつき、周りのものが全てタブって見えていた。


これは流石に早く帰って寝たほうがいいかもしれない……
電話番号知らないし、総司の所に行って、一言告げたら、今日はもう帰ろう……


そのまま千鶴は重い身体に鞭打って、総司のいるあのBARへと向かい始めた。





 ***






昼でも夜でもあまり代わり映えしない薄暗い店内――


グラスの手入れをする手を止めると、総司は深く、ため息をついた。
視線をずらし、壁に掛かった時計を見ると時刻はもう午後6時。


考え事をしていたせいか、気づけばもう4時間もグラスを磨き続けていた自分に総司は呆れて苦笑した。


磨いていたグラスを置くとコツンという音が店内に響き渡る。
そのままカウンターの向こう側へ回ると、1脚しかないイスに腰掛け、テーブルの上に頭を乗せ、磨いたばかりのグラスに映る自分自身と向き合った。
しばらくぼんやりと眺めた後、グラスの端に映り込むドアへと視線を移した。


千鶴ちゃん……怒った……?よね………


『また明日……』と彼女は言っていたけれど、彼女が嫌な思いをしてまで僕に付き合う理由はない。
もう彼女は来ないかもしれない……
それを想像しただけで、総司の心はぽっかりと穴が開いてしまったようだった。


『どうせ記憶が戻るまでの付き合いなんだし!』


昨日、彼女に言ってしまったこの言葉――


あれは、本当に心から思っていたことでも、言おうとしていた言葉でもなかった。


僕にとって彼女は、先が見えなかった暗闇に差す一筋の光。
僕というものを僕よりもよく知っている。
僕の存在が確かなものだと認めてくれる、大切な人だ。


彼女と出会ったのは2日前――


一昨日は、彼女の話を聞きながら、ひどい頭痛に襲われたが、その痛みと引き換えに、断片的にだが、自分の記憶に触れることができた。


それに、彼女が忘れていったあの写真。
これを初めて見た時は、頭の中で映像がフラッシュバックし、強い衝撃を受けたが、今眺めるとあの時ほどの衝撃はない。
それに、この写真からは総司にとって、重要な情報が入手できた。
総司はテーブルの端に無造作に置かれた黒いファイルに手を伸ばした。





実は昨日、総司はあの写真と自分のパスポートを持って、近藤の所を訪れていた。


1年前、近藤の乗った車に撥ねられて、記憶を無くした総司だったが、パスポートに記されていた住所も不確かで、行く宛てのない見ず知らずの自分の面倒を嫌な顔ひとつせずみてくれた彼にはとても感謝していた。
いつも優しく、大らかな笑みを絶やさない彼は、総司だけでなく、周りの人間からの信頼も厚い。
そんな彼は傍から見たら、想像もつかないが、総司のBARがある辺り一帯を締める薄桜会の若頭である。


彼は総司の話を聞くと早速、自他共に認める彼の右腕である土方に命じ、裏ルートで情報を提供してくれた。


それによって分かったことが2つ。


1つ目は、総司のパスポートがとても精巧にできた偽装パスポートであったということ。
これには近藤も土方も驚いていた。
もしも、一昨日までの総司……彼女と出会う前の自分なら、信じてきたものを失って、名前すらも失って、途方に暮れていただろうが今の総司には縋れるものがある。なので、途方に暮れるというよりは、『やっぱり』という感覚の方が強かった。


2つ目は、写真の女性……総司の母の本当の身元。
受け取ったファイルによると、彼女の名前は『沖田 凜』
8年前に倒産した株式会社『沖田』の元社長の妻。
8年前、夫の自殺後、息子とともに行方不明
そう記されていた。

それ以上はまだまだ時間がかかりそうだと言いながら、頭を下げる近藤に総司はこれだけで十分ですです、と丁寧にお礼を言って彼の所を後にした。






ということは………
黒いファイルを眺めながら、総司は思考を働かせる。


やっぱり…と言うべきか、僕の名前は『沖田総司』。
彼女は僕の父の会社には多額の借金があったと言っていた。
それに父の自殺と会社の倒産。
この2つから想像力を働かせると、多分、この借金というのもかなり大きな額を、しかも苦し紛れに相当質の悪い所からしていたのだろう。
僕と母がそれから逃れるために、偽装パスポートまで作らないといけないほどに……
そして、パスポートに記されていたように、僕と母はアメリカに渡った……


そこまで辿り着くと、今まで無意識に、心のどこかで避けていた1つの疑問が総司の頭を掠めた。


だとしたら……母は……母はどうしたんだろう……


―ズキン…


頭の奧が鈍く痛む。


母の写真を見たときのあの衝撃……
虚ろな瞳のあの女性……
真っ赤な映像………


――ズキンズキン


頭の痛みが強さを増す。総司はそれに耐えるために、目を瞑り、髪を掻き毟るかのようにギュッと掴む。


はっきりしないあの映像……
あの女性が母さんだとしたら…?
彼女はもう………


――ズキンズキンズキン


堪えきれないほどの頭痛に総司は思わず呻いた。こめかみに手を当て、背中を丸め、テーブルに突っ伏す。嫌な汗が背中を伝う。


ようやくそれが収まった頃には、総司のシャツはぐっしょりと濡れ、不快感だけが残っていた。


「……シャワー浴びたい………」


擦れた声で呟くと、総司はカウンターの奥のドアを開ける。
ドアのすぐ隣にあるスイッチを上げれば、無機質な蛍光灯の光が部屋を照らし出す。
ソファーの前を素通りし、1番奥のバスルームのドアを開ける。


シャワーを浴び、幾分気分もすっきりした総司だったが、仕事着を着る気分にもなれず、側にあったジーンズに手を伸ばす。
それだけ穿くと、髪から伝う雫もそのままに首にタオルをかけ、鏡に映る自分と向き合った。


この1年間、毎日のように鏡に映る自分の姿を眺めては、一体自分は何者なのかと問いかける一方で、しっくりこないまま縋るように自分は山田優司なのだと言い聞かせてきた日々。
しかし、今日は自分は『沖田総司』なのだと、確かに存在しているのだと自分に向かって断言できる。


しばらくぼんやりと自分の姿を眺めていると、総司の視線がある場所で止まる。


普段は気に留めもしないのだが、総司の左胸には3センチほどの傷痕がある。
記憶のない今となってはどうやってついた傷なのかは分からない。
いつもはもう少し目立たないのだが、身体が温まった今はほんのりと桜色に浮かび上がっている。


不意に目が留まったそこを右手でゆっくりなぞってみると、再びじわじわと頭痛が広がる感覚に総司は顔をしかめ、手を離す。


「今日は誰も来ないだろうし、もうこのまま寝ようかな……」


そう思った総司は戸締まりのため、玄関へと足を運ぶ。


「あれ……?」


奥へと続くドアから出れば、カウンター越しに入り口の黒いドアが目に入る。
シャワーを浴びに行くまでは閉じられていたはずのそのドアが今は少しだけ開いていて、微かにネオンの光が差し込んでいる。


もしかして、誰か来たのかな?
でも、お客さんだったら、声くらい掛けるだろうし……


一応盗られたものがないかざっと確認しつつ、ドアへ向かうと、僅かに開いた隙間から、ネオンに照らされた白いものが覗いている。


「………手?」


人だと分かった瞬間慌てて駆け寄り、ドアを開くと、ドアにもたれかかるような形になっていた千鶴の身体がお店の中に倒れ込む。


「っ!?ち、千鶴ちゃん!?どうして………」


もう来ないだろうと思っていた彼女の予想外の訪問と床に倒れている姿に総司は驚きで目を瞠る。


しかし、すぐにはっと我に返ると肩に腕を回し、千鶴を抱き起こした。
服越しにも伝わってくる彼女の体温は温かいと言うより、かなり熱い。
総司はそのままぺちぺちと頬を叩き、彼女の名前を呼んでみる。


「ねぇ、千鶴ちゃん!しっかりして!」


身じろぎ1つせず、全く目を覚ます気配のない彼女の額をそっと撫でる。
彼女に触れた部分から感じる体温は熱く、汗もかいているのに顔は蒼白い。
さすがにこのままにしておく訳にもいかないが、家まで送ろうにも彼女の家が分からない。
仕方なく総司はそっと彼女を抱き抱え、自分がいつも寝起きしているベッドに寝かせる。
そして、冷凍庫から氷を取出し、水と一緒にビニールに入れ、タオルを巻くと、千鶴の傍に座り込み、額の上にのせた。
すると、彼女の表情がふっとゆるむのが見てとれて、総司もようやくほっと息をついた。


それにしても………


総司は千鶴をまじまじと見つめる。


彼女がこうなった理由は多分……というより絶対、昨日雨の中を走ったからだろう。


あんなに酷いことを言われて……怒って、飛び出して、もう来ないんじゃないかって思った。
それなのに、こんな状態になってまでここに来たのはどうして…?


意識のない千鶴の白い頬を大きな手のひらで滑るように撫でながら、総司は心の中で問い掛けた。
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