バーテンダーな僕

□記憶をたどる水曜日
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このBARに来るようになって今日で3日目。


初めは彼に開けてもらって。
昨日はお千ちゃんに背中を押されて思い切って開けたドア。


全く同じドアなのに、今日は眺めているだけでちょっぴり何かを期待させるようなそんな気がする。


「こんばんは。」


そんな気持ちでドアからひょっこり顔を出すと、彼はグラスを拭く手を止めて、端正な顔をにっこりとさせ、笑顔で千鶴を出迎えてくれた。


「いらっしゃい。待ってたよ。」


『一見様お断り』ならぬ、『ここでの出会いは一度きり』というのがルールのこのBARで「待ってたよ」なんて言ってもらえるのは、多分自分だけ。
記憶を取り戻すまでの限定的な協力関係だということは分かっていても、ずっと想い続けてきた相手から貰った、昨日の“特別”という言葉と重ね合わせ、それだけで千鶴はほんわりと幸せな気持ちになる。


昨日まで不確かだった存在が千鶴の中で確信に変わり、やっぱりまだ彼のことが好きだったのだと自覚した。少しの間かもしれないけど、彼の傍にいられる。彼が私を見てくれる。
そう思うと頬が弛みそうになるのを隠すように、カウンターに背を向け、壁に荷物を掛けると、バックの中から小さなフォトアルバムを取出し、席に着く。
机に肘をつき、両手で頬を覆いながらぼーっと彼の横顔を眺めていると、今日の昼間のやりとりが頭の中に蘇ってきた。




 ***





「で?千鶴ちゃん。昨日はどうだったの?」


コンビニで買ったサンドイッチを頬張るお千の隣で、寝不足気味でぼーっとするあまり焦がしてしまった卵焼きをつついていた千鶴の耳によく通るお千の声が聞こえてくる。
その声に夢の世界からふっと引き戻されると、夢見心地のまま千鶴は曖昧な返事をした。


「うん……あー……うん。何かいろいろあったような……」


「千鶴ちゃん!!しっかりして!!」


肩を揺さ振られ、ようやく意識がはっきりした千鶴は、もう大丈夫だから!止めて!、とクラクラする頭で言いながら昨日の出来事を話しはじめた。





「……………それでね、彼の記憶を取り戻せるように、私にできることがあるなら協力しようと思って。だから、今日もBARに行く約束になってるの。」


「ちょ、ちょっと待って!!」


長々と5分以上かけて全てを話し終えた千鶴に対し、右手で目頭を押さえつつ、左手を開いたまま千鶴の方に突き出して、お千が待ったをかけた。


「昨日の話は、相手がそのお兄さんかどうか確かめるって話だったわよね?」


「うん。それで、そのお兄さんに間違いないって分かって、私が記憶を無くす前の彼を知ってるから協力しよ……」


「はいストップ!!ちょっと、千鶴ちゃん。お兄さんってことが分かったのは良かったわ。けどね……彼は記憶が戻ったら、他の女に会いに行くって言ってるんでしょう!?それなのに、どうして協力するなんて言ったの?千鶴ちゃん、彼のこと好きだったんじゃなかったの!?」


身を乗り出して、さらに言い募ろうとするお千を真っ直ぐ見返すと、千鶴は静かに口を開いた。


「うん。好きだよ。会ってみて、お兄ちゃんだって分かって、やっぱり好きなんだなって改めて思った。」


「それならどうして…」


「だけどね、彼のことを見て分かったの。このまま私が何もしなくても、彼がこっちを振り向くことはないって。今の彼は大切な誰かを人のことしか見えてないから。それに、ここで何もしなかったら、絶対に自分が後悔するって思って。」


昨日までと違って、何か吹っ切れたようにきっぱりと自分の気持ちを言い切る千鶴にお千は驚きと呆れが入り混じったようなため息を零した。


「はぁ……ここまでくると、お人好しっていうよりもバカって言いたくなっちゃうわ。」


まぁ、そういう所が千鶴ちゃんのいいところなんだけどね……
聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呟きながらふふっと笑うお千につられて千鶴もフワッと笑顔になった。


「私、お人好しなんかじゃないよ。協力してって頼まれた時、一瞬、他の人に会わせるために協力なんてしたくないって思っちゃったもん。」


「そんなの、好きな人だったら普通の感情よ!それだけその人のことが好きだってことでしょ?うちの風間なんてちょっと用事があって他の男の人と話しただけで、嫉妬心丸出しで、そいつをクビにする、なんて言い出して大変なんだから……それを表に出さない人をお人好しって言うのよ。」


堂々と半分くらいは惚気てくるお千に千鶴はクスッと笑みをもらし、口元に手を当てる。


「普通…なのかな?でもね、もし記憶が戻って、その2人を見て、それでも諦めきれなかったら、気持ちだけは伝えようって決めたの。」


真っ直ぐな瞳で自分を見つめながら言う千鶴にお千は目を瞠った。


「千鶴ちゃん……変わったね。これぞ恋のパワーってやつかな?」


「私、変わったかな?」


何が変わったとはっきりわかったわけではなかったが、千鶴も今までぼんやりと……ぐらぐらしていた心に芯が1本通って、シャンとしたような気がしていた。


「もうっ!ますます素敵な女の子になっちゃって!!私のお嫁さんにしたいくらい!!」


「それは無理だよ〜」




 ***





「ねぇ、君!!ちょっと?おーい!!」


連日の寝不足も手伝って、夢見心地で昼間のことを思い出していた千鶴は、彼の声にようやく現実に引き戻され、慌てて返事をした。


「ふぇ!?はっはい!!何ですか?」


とっさに変な声が出て、千鶴は顔が赤くなるのを感じ、視線を彷徨わせた。


「いや、君が座った途端、どこかの世界に魂だけとんでっちゃったから。」


「あぁ……えっと………今日の昼のことを思い出してただけです。」


「昼間の事?」


聞き返されてもお千との会話の内容など話せるはずもなく、千鶴は傍から見たら怪しいくらいに両手をぶんぶんと振って、誤魔化そうとした。


「なな何でもないです!!」


「そんな反応されると気になるなぁ。」


「きっ気にするようなことじゃないんです!!それより、本題に……」


何とか話を逸らそうとする千鶴を彼はまだ幾分訝しげな表情で見ていたが、すぐに興味を無くしたようで、先を促した。


「そうだね。その前にまず、君の名前を教えてくれないかな?さっき呼び掛けてた時に気付いたんだけど、名前知らないと呼びにくくて。」


言われて初めて、そう言えば名前言ってなかったなと気づいた千鶴はケースから名刺を取り出すと、彼の方に差し出した。


「雪村千鶴です。」


彼は千鶴から名刺を受け取ると、端をつまんで、あまり興味が無さそうに目の前にぶら下げていた。


「株式会社『OGRESS』ねぇ?聞いたことあるような……結構大手だよね。君、見かけによらず優秀なんだ?」


そうやってにやりと笑う彼に千鶴はちょっと懐かしさを感じながもむっとする。


「“見かけによらず”は余計です!最近は企画も任せてもらえるようになったし、ちょっとは褒めてもらえるようになったんです。」


「ふぅん?君がねぇ……僕にはただのドジッ子にしか見えないけど。へえぇぇ〜」


いかにもわざとらしく驚いてみせる彼に対抗して、千鶴も口を尖らせ、彼をにらむフリをする。


そんなやりとりがしばらく続いた後、お互いに顔を見合わせると、どちらともなく、ほとんど同時に吹き出した。


「「ぷっ…」」


「あははっ……」
「ふふっ……」


「あーもう、君って本当に面白いね。」


「それを言うならあなただって。」


千鶴は懐かしさも入り混じり、こんなやりとりすらも愛おしく、彼の横顔を見つめながら、あぁ、やっぱり好きなんだなぁと改めて思う。


「おっと、こんなことしてる場合じゃなかったね。じゃあ、君が知ってる“僕”……でいいのかな?僕のこと話してくれる?」


一瞬にして真剣に、深く濃い翠になった瞳を見つめられながら、千鶴はゆっくりと口を開いた。


「私が知っているあなたは……お兄ちゃんは、私より4つ年上で、昔お隣に住んでいたんです。お兄ちゃんはいつも優しくて、よく遊んでもらったり、勉強を見てもらったりしてたんですけど……ちょうど8年前、突然いなくなってしまったんです………」


「8年前……それって……僕のパスポートに書いてある日付と同じ……?」


探るような彼の目に応えるように頷くと、千鶴は話を続けた。


「8年前、お兄ちゃんは……彼の家は家族全員、誰にも…何も言わずにいなくなって……」


ここから先をどう言うべきか、言葉を濁し、チラリと見ると「続けて」と彼は先を促した。


「それで、私は父から、彼のお父さんは自殺したって聞かされました。随分借金もあったみたいで……でも、お兄ちゃんと彼のお母さんはどこに行ったか分からなくて……」


様子を窺うように彼の方を見ると、彼は少し蒼ざめた顔で目をギュッと瞑り、こめかみを押さえていた。


「あの、大丈夫ですか?」


そう言って覗き込みながら手を伸ばす千鶴を拒絶するかのように彼は千鶴を手で制す。


「大丈夫。大丈夫だから……それで?」


「彼と彼のお母さんは借金のカタに殺されたとか、心中したとかいろいろと言われてたんですけど、本当のことは分からないんです。」


「そう……なんだ……」


――話が進むにつれて、まるでその先を聞きたくない……聞いてはいけないというように強まる頭痛と時折頭をチラつく真っ赤な色と2人の女性……
痛みよりも何よりも、それが一体何なのか確かめるために、髪をかきむしるようにギュッと掴むと先を促した。


「その……僕の…母?でいいのかな?母は…どんな人だった…?」


「お兄ちゃんのお母さんは……
あなたと同じ翠の瞳で……
柔らかそうな茶色の髪を長く伸ばしてて……
いつも優しそうに微笑んで……



遠い昔を思い出すように、千鶴は目を細め、彼女の姿を思い浮かべながら、思いつくままに言葉を羅列していると、視界の端をブルーのチェックのフォトアルバムが掠めた。
手を伸ばし、パラパラとページをめくりながら、真ん中より少し後ろ、目的のページで手を止める。


確かこれは……いなくなる1年前……千鶴が新しいデジカメを買ってもらった時に、撮ったもの。お兄ちゃんが住んでいた家をバックに彼が彼の母に手を回し、2人とも笑顔で写っている……


そのページを開いたまま、千鶴は彼の方に差し出した。


彼はそれを受け取り、女性の姿を認めると、零れそうなほどに目を見開き、次の瞬間、呻くような声と共に千鶴の前から姿を消した。


「っく………!」


その声に弾かれたように千鶴はイスから立ち上がり、カウンターを回ってうずくまる彼の傍に屈み込む。


そのまま蒼ざめた顔で頭をかかえ、苦しそうに息をする彼に触れようとした瞬間、千鶴の手はパンッと音をたてて弾かれた。


――頭の中に自分とそっくりな女性の何も映っていない……ただ開かれているだけの虚ろな瞳と真っ赤な映像がズキンズキンという痛みの波に伴ってフラッシュバックする。


「大丈夫…大丈夫だから……今日はもう1人にして………帰って!」


突然の彼の変化と尋常ではない様子に千鶴は不安でたまらなかったが、今の自分がここにいても拒絶されるだけで何もできない。
千鶴は悔しさにキュッと唇を結び、彼の傍をそっと離れ、荷物を手に取ると、一瞬だけ後ろを振り返る。
そのまま外に出ると、ドアを微かにあけたまま、ドアの前で息を潜めて耳を凝らす。


どれほどそうしていただろうか、そんなに時間はたっていないのかもしれないが、千鶴には永遠にも感じられるくらい長い時間がたった後、千鶴の耳にようやくカチャカチャとグラスの音が聞こえてきた。
千鶴はほっと息をはくと、心底安心した声で「よかった……」とただそれだけを呟いて、音を立てずに階段を昇り、BARを後にした。




『街中出会う木曜日』に続く




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