陽炎

□A
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『僕、まだ帰りたくないな』

カノの小さな呟きは、微かに聞こえていた運動部の掛け声とともに消えた。

「…は?」

何言ってんのお前、と言おうとシンタローが口を開いた瞬間、

「…なんてね!あはは、ちょっとしんみりしちゃった?嘘だよ嘘!僕お腹空いてるし心配しなくても帰るよ、ばいばい、シンタローせんせ!」
「はっ?ちょ、おいっ、カノ!?」

カノはシンタローの静止も聞かず、駆け足で理科室を出て行った。

「…ったく、なんなんだよ、あいつは…」

わけもわからず、独り残されたシンタローは静かになった理科室で呟いた。
出て行ったカノの、何かを堪えるような表情にも気付かずに。



***




…僕、鹿野修哉には「父親」がいなかった。
母さんは何も喋らないし、昔一度好奇心に負けて聞いてみたところ、母さんは泣きながら僕を何度も何度も殴ってきて、ほとぼりが冷めると泣きながら僕に殴ったことを謝ってきた。
母さんのあんな辛い顔、もう見たくなかったから、僕は自然と僕の父親について考えることをやめていった。

スマホを弄りつついつもの場所へと向かう。もうすぐ待ち合わせ時間のはずだ。
時間はPM6:00を回ったところで、日も暮れかけている中、僕はいつまで経っても慣れないけばけばしいホテルが連なる街へと、『いつも通り』向かっていた。
学生服の女子もちらほら見かける中、パーカーの上にカーディガンを羽織り、男物の指定スラックスを履いた僕は少し浮いていた。
…まぁ、ここに来る理由なんてたかが知れているだろう。
皆見て見ぬフリをしている。…もっとも、僕は少しずつ街の人とも顔見知りになりつつある状況ではあったけれど。
何も考えず、歌詞の無い曲をイヤホンで聴きながらいつもの場所へとたどり着いた。

街の中心部らへんにある、小さな古びた噴水(今はもう使われておらず、水がたまるはずの所には枯れ葉やらエロ本の切れ端やら、あからさまな大人の玩具などが捨てられている)のレンガ造りになっているへりの部分へと腰掛ける。
そのまま数分を過ごす。と、目の前に影が重なった。



「…君が、『灰色猫』くん?」

灰色猫、というのは僕のハンドルネームだった。
以前、どこかのBBSにいた人に名付けて貰ったのだ。(その時僕は普通にSと名乗っていた)
ハァハァと気持ち悪い吐息を吐きつつ、そいつは僕に話しかけた。
嫌悪感を顔に出しそうになるのを堪え、僕はにっこり笑って、サラリーマン風のそいつの顔を見て、言う。

「そうだよ、・・・『溝口』、お兄さんでしょ?今日はよろしくね」



…僕の家は、端的に言えば「貧乏」だった。
母さんが朝早くから夜中まで働きに出て、なんとか生活は出来ているし、ご飯もちゃんと食べれているから、貧乏とは言いがたいのかもしれないけれど。
朝、母さんが残していった朝ご飯があれば僕が食べて、昼は学校で自分で作った弁当を食べて、夜は母さんの分のご飯も用意して、一人で食べる。これの繰り返し。
おかげで家事全般はこなせるようになったから、少しは母さんの役に立てている、と思っていた。
…だけど、やっぱりお金は厳しいみたいで。僕が高校に行ったから、余計に。
母さんは気にしないでいいと言ってくれていたけれど、ある日偶然見てしまった母さんの自傷行為で、僕も何か母さんのために、母さんが泣かなくて済むように、母さんにばかり重荷にさせないように僕もお金を稼ごう。そう思って、短期間、楽に大金が手に入るバイト、と言ったらやっぱり、援助交際ぐらいしかなくて。
この世には男しか性的対象にみれない奴がいるのは知っていたけれど、まさか僕がそんなのに抱かれるはめになるなんて、思っていなかった。
まぁ、喘いだフリをして、自分からおねだりする淫乱を装っていれば5万とかもらえるし、中で出させればさらに数万プラスしてくれる太っ腹なやつもいるので、…腰とお腹とお尻と心が痛いのはあるけれど…耐えればいい話だ。
こうすれば母さんも楽になって、僕の前で笑ってくれる。一緒にご飯が食べれるかもしれない。そのためなら…僕自身の痛みなんてちっぽけなものだ。

『溝口』に誘われるがまま、僕はホテルへと入る。
部屋にチェックインするときに、腰に手を回されて、これが僕の心を閉ざすタイミングとなる。


『ここから終わるまで感情は出さない。ただ喘ぐのと、腰をふることだけに集中する。誰のことも考えず、相手だけしか頼れない、といった雰囲気を醸し出す』と、いつも通り、心の中で唱えて。


エレベーターが止まり、ドアが開く。一時の快楽のためだけに用意された部屋へと僕を誘う。

そうして今日も、僕はニセモノの愛を受け入れるんだ。

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