魁
□天使のくちづけ あくまのくちづけ
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なまえは初め、荒れ狂う激流に浮き沈んでいるそれを人形かと思った。
もがく素振りを一切見せず脱力し、ただ流れに弄ばれる身体。青白く血の気の失せた肌。
…………そしてなまえの足元に落ちる、見覚えのあるシルクハット。
「………………!!」
その漂流物が紛れもなく人であり、また誰であるのか気付いた途端、なまえの全身の血はざっと音を立てて引いていた。
裏方から塾生たちを支える役目を与えられた影慶。その助手として、みょうじなまえもまた秘密裏に冥凰島の地を踏んでいた。
「俺はそろそろ本陣に向かう。後のことは頼んだぞ、みょうじ」
「はい、影慶先輩。ご武運を」
翔霍と名を偽り直接的な助っ人に向かうこととなった影慶に、なまえは真剣な表情で頷いた。
これからは自分が塾生の救助を一身に担うのだ。今まで以上の集中力、判断力が必要となってくるだろう。
颯爽と丸太に乗って去っていく影慶、いや翔霍を見送った後、なまえは素早く下流に移動した。
……対戦チームは確か、梁山泊と言っていただろうか。彼が直々に出向くほどだ、相当手強いチームなのだろう。
嫌な予感にぶるりと身震いをする。
(……どうか、みんな無事で)
私の出る幕など、ひとつもありませんように。
――その祈り空しく激流に弄ばれる彼の姿を発見したのは、それからすぐのことだった。
「ディーノ先輩!!」
無我夢中で手中の鍵縄を放り、引っ掛かった彼を必死で手繰り寄せる。
こういうものを火事場の馬鹿力と言うのだろうか。ただでさえ筋肉質な身体は衣服が吸った水で余計に重たいはずなのに、何故か重さは感じなかった。重さなど感じている場合ではないというのが正しいのかもしれない。
自分の限界を遥かに越えた力で引きあげた彼の身体に駆け寄り、濡れるのも構わず心臓に耳を当てた。首に触れて脈を取る。
……良かった、少し弱いけれど脈はある。出血も失血死相当量には至っていないようだ。
しかし口元に手を持っていった途端、なまえの背筋にすぅっと冷たいものが走った。
「……息……してな、い」
青白く色を失った唇は、薄く開いたまま微動だにしていない。そこにあるべき空気の流れも、まったく感じられなかった。
不意に目の前の彼がじわりとぼやける。しかしなまえは両手で自分の頬を打ち、揺らぐ心を叱咤した。
何を情けない。これでは任せてくれた影慶にも、命を懸けている他の皆にも申し訳がたたない!
く、と顎を持ち上げて、唇を合わせる。その冷たさにまた泣いてしまいそうになったが、必死に堪えて呼気を気管に送り込んだ。
(死なないで、ディーノ先輩……!)
――その行為を幾度か繰り返していると、やがてごぼっと濁った水音が彼の喉で響いた。ぬるい水が呼吸と共に吐き出される。身体をくの字にして咳き込むその背をさすりながら、なまえは一応の安堵に長い息を吐いた。
固く閉じられていた目がうっすらと開く。ぼうっとしたままさまよわせていた視線がなまえを視認し止まった。
「先輩……ディーノ先輩、わかりますか」
「…………」
緩慢な瞬き。けほ、ともう一度小さい咳をしてから、ディーノは自らの口元に触れた。
そしてゆっくりと、まだ色の戻らない唇が動く。
「…………随分と、あの子に似た天使だ。
目も眩むばかりの美貌だと思っていたが、意外と地に足のついた愛らしさというか……」
「……はっ?」
「最期に一目、と願ったせいか……ヤキが回ったものだな……」
それだけ言って、ディーノは再び目を閉じる。
慌てて様子を窺うもどうやら身体に異変はなさそうだ。疲労と出血のため気を失ったらしい。
すぐに王大人へ連絡を入れて、それまでの間に傷の応急処置をしなければ。やるべきことは山積みだ。なんたって全身大怪我の重症患者には間違いないのだから。
だから、そう、私は、重症患者のうわごとに動揺している場合ではないのだ。
わけのわからない動悸に悩まされながらもなまえは気合いを入れ直し、そこそこ大きい救急箱を懐からぬうっと取り出した。
* * *
「……私を助けてくださったのは、君だそうですね?」
礼を言いますよ、と言いながらディーノは患者用ベッドから半身を起こす。
――あれから王大人の元で治療を受けていたディーノは、絶対安静ではあるものの意識自体は早い段階で取り戻していた。
なんら変わりないディーノとは対照的に、なんとなくしどろもどろになりながらなまえは首をぶんぶんと振った。
「い、いや……その、当然のことをしたまでですよ」
「救助に当たってインタビューされた日本人のテンプレートと言って差し支えない返答ですなあ」
「だって本当に、それまでのことですから」
「いやにつれないな」
素っ気ないばかりか視線も合わせようとしないなまえに、ディーノは肩をすくめる。
「……ファーストキスを奪った責任を取れ、と言われても甘んじて受けるつもりだったのですがね」
「な……!
あ、あれはき、キスじゃなくて人工呼吸です!応急救護です!ノーカウントですノーカウント!」
「なんだ、本当に初めてだったのか」
「…………っ!!」
かああ、と一気に血の上る顔。
覚えていられただけでも正直気まずいのにその上軽口まで叩くなんて!あまりにもいつもどおりすぎやしないかこのエセ男爵!引き上げた時どうして褌姿だったんですか!
「……しっ……心配して来たのに!そんな風にからかえるなら、余計なお世話だったみたいですね!」
羞恥に耐えかね、きゃんきゃんと可愛げなく吠えながら簡素な椅子から立ち上がる。身を翻した際にがしゃんと椅子が倒れる音がしたけれど、気にしている余裕などなかった。あるものか。
「――君の言う通りですよ」
「……え?」
「ただの人工呼吸だ。忘れるといい」
からかうような響きの消えた、いつになく穏やかな声につい振り返る。
「……君のお陰で生き延びた。感謝、しています」
ネンネはこれだから困ると小馬鹿にすればいいのに。いつもみたいに鼻で笑って、キスは助けてくれた御礼です取っておきなさい、くらいぬけぬけとのたまえばいいのに。
そんな真面目な顔は、殊勝な言葉は、ディーノ先輩にはちっとも似合わない。
ぐらぐら上下している返しそびれた踵をゆっくりと地につけて、なまえはディーノに向き直った。
勢いよく大股で近づいて――もう冷えきってはいない唇に、なまえは自分のそれを合わせた。
「………………みょうじ、君?」
「こ、これが、正真正銘、ファーストキスですから」
さすがに目を丸くするディーノに、なまえは叩きつけるように言った。
「せ、せ、責任取って下さいね!」
ばたん、と病室の戸を荒々しく――腹立ち紛れなのか恥ずかし紛れなのか、恐らく両方だろうが――閉めながら、全力疾走するなまえの足音が遠ざかる。
ぽつんと残された病室で、やれやれと呟きながらディーノは傍らのシルクハットを深く被った。
……今、他人に顔を見られるのはできれば避けたい。
「また息が止まるところだった」
柔らかく熱の残る唇を手のひらで覆う。
感触はあの時と同じはずなのに、意図が違うだけでこんなにも甘ったるく響くものなのか。
「天使なんてとんでもない――小悪魔だ」
それもとびきりタチの悪い。
いっそ感心さえしてしまう程の高揚に、ディーノは苦笑い混じりの溜め息を吐いた。
何だかんだでどうせ明日も来るくせに、と思ってしまうのは、決して自惚れではないはずだ。
了.
ディーノ対酔傑は個人的には一番好きな試合です。
二転三転する試合運びとトリッキーな戦法、見事な散り様、何度読み返してもわくわくするしぐっときます。
酔傑もいいキャラですしね。
そしてその酔傑はどこに行ったんだろう、一緒に落ちたはずなのに、と書いてる途中で気付いたのですがもうどうにもなりませんでした。
どっかの岩とかに引っ掛かっちゃったんですかねえ。
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