魁
□いま、萌芽のとき
1ページ/1ページ
『虎丸んとこのせがれが男塾に入るらしい』という噂が村に広まったのは、小雪ちらつく立冬の頃だった。
は、と吐く息が白く濁る。制服の上に着込んだ厚手のコートは重たくて、彼の家に着く頃には私の肩はすっかり凝ってしまっていた。
「……虎兄。虎兄、いる?」
鍵のかかっていない玄関を少し開けて声を掛ける。呼び鈴はずっと前に近所の不良と喧嘩したはずみで壊れてそのままだ。
ガムテープで乱雑に留められたそれは住人たちのおおらかさを体現しているようにも思える。おおざっぱとも、適当とも言えるけれど。
ちなみになぜそんなところが壊れたかというと、虎兄が相手の頭をわし掴んで何度かごつごつと押し当てたせいである。
何を隠そうその不良に絡まれていた当事者であり原因の一端である私は、未だにあの時の〈ピンポンピンポンピンブチッピンブチチッピッブツッピッピッピ―――――〉というコミカルでおぞましい怪音に耳を苛まれている。
「――虎兄っ」
「おー、なまえかー!?」
相変わらずばかでかい返事が聞こえたのは薄暗い室内からではなく裏庭からだった。
家屋をぐるりと迂回してたどり着いた先では、寒空の下でも平気で上半身裸になっている大男が巻藁に拳を打ち込んでいた。
「どうしたなまえ、何か用か?それとも俺に会いたくなっちまったか」
「……虎兄、またそんなかっこ。風邪引いちゃうよ」
心配して言ったのに、虎兄は私の気も知らず大口を開けてがははと笑い飛ばした。
がっちりと鍛え上げられた身体からはうっすら蒸気が立ち上っている。
「あに言ってんだ、この虎丸龍次がそんなにヤワに見えっかよ。どっかのひよわな嬢ちゃんとは違うんだぜ」
「……そうだね、虎兄バカだから大丈夫だよね」
「ほお。いつの間にかかわいくねえこと言うようになったじゃねえか」
「ぎゃ!?」
のしのしと熊のように近付いてきた虎兄に首を取られ、頭を掻き乱された。
回された腕は暖かいというより熱くて汗臭い。緩く締め上げてくる虎兄からもがきながらも、どれだけ打ち込んだらこうなるのだろう、と思う。
「つめてっ。なんじゃお前、冷えきってるじゃねえか。
中入ってあったまってけ、茶くらいいれてやるからよ」
「……うん」
裏庭に直結している縁側から、虎兄に続いて家に上がった。
雪を吸ったコートを脱いで隅に置かせてもらう。それでも、肩の重みが無くなった気はしなかった。
「こたつ、火いれていいぞ」
「うん」
台所に向かう虎兄を見送って、居間にある電気こたつに火をいれる。おじさんもおばさんもまだ帰ってきていないようだった。
火をいれたばかりでまだ冷たい電気こたつの中に足を突っ込んで、ぬくもりと虎兄をじっと待つ。
やがて二人分の湯飲みを持った虎兄が半裸のままで現れた。
「ほらよ」
「ありがとう、虎兄。
……ねえ、筋トレ中なら仕方ないけど、年頃の女の子の前でそのかっこはどうかと思う」
「筋トレじゃねえ。拳法の修行じゃ」
「え、拳法?」
「おう。猛虎流ってんだ」
「有名な流派なの?」
「いや俺が考えた」
「………………」
どこまで真面目に話しているのかさっぱりわからない。
私は釈然としない気持ちで熱い渋茶を飲み込んだ。むせた。
「げほっ、ごほごほっ」
「お、おいおい何やってんだなまえ。ほれティッシュ」
「……ごめん、大丈夫……けほっ」
「ったく……気ぃつけろよな。いつまでも俺が面倒見ちゃやれねえんだぞ」
「…………」
ずき、と胸が痛むのを感じた。
確かにその通りだけれど、あの噂を聞いたばかりではどうしても繋げて考えてしまう。
呆れて笑う虎兄はいつもと変わりない。でも私は、いつものようにへらへらと遊びに来たのではないんだ。
聞かなければ、言わなければならないことがあって、私はここに来たんだ。
「と……虎兄。
……男塾に行くって、ほんと?」
「ん?知ってたのか」
ああそうだ、と虎兄はいたって当たり前のように頷いた。
あまりにも呆気なく頷くから、私はその内容を理解するのにしばらく時間を必要とした。
「……で、でも……危険なところなんじゃないの?
噂でしか知らないけど、皆言ってるよ。どこにもいられなくなった人が最後に行き着くとこだって。
……死んじゃう人もいるって」
「だから行くんじゃねえか。生ぬるい場所じゃ男なんざ磨けやしねえよ」
「虎兄は充分に強いじゃない。それじゃだめなの?」
「駄目だ」
きっぱりとした声音の宣言。
それはすでに、虎兄が何にも揺るがない決断をしてしまったことを表していた。
そして私は悟る。
もう、私が何を言っても無駄なんだと。
驚くほどすとんと胸に諦めが落ちて、強張っていた肩が少しだけ脱力した。
「何だ、行ってほしくねえのか?」
「……当たり前じゃない、そんな危ないところ」
「死にに行くつもりはねえよ。だからそんな泣きそうな顔すんな」
「泣きそうな、顔なんて……」
「しとるじゃろ」
虎兄の大きな手がぬっと伸びてきたかと思うと、私のほっぺたをむにっとつまんだ。
「いつもの顔だ。泣きてえの我慢してる時のな。
ガキの頃から変わらんのお、お前は」
からかうような台詞なのに、その口調も指先も優しくて。
「…………、そうだよ」
こらえきれなかった一粒が頬を滑って、虎兄の手のひらを濡らした。
「……虎兄がいないと何もできないのも、虎兄が大好きなのも、小さい頃からずっと変わってないよ……!」
目を見開いた虎兄の手を払って、雪の中に飛び出す。
なまえ、と叫ぶ声が何度か聞こえたけど、私は結局一度も振り返らないままだった。
* * * * *
「龍次君、今日出発するんでしょう。見送らなくていいの」
これが最期かもしれないわよ。
そんな母の洒落にならない冗談に背を押され、私は駅までの道をとぼとぼと歩いていた。
あれから会いづらくなってしまって、虎兄とは顔を合わせずじまいだった。
自分勝手に吐き出して押し付けた気持ちがのしかかって、自業自得とばかりに私を押し潰していた。
――駅に着くとなにやら大勢の騒ぎ声が聞こえる。内容に耳をそばだてると、どうやら騒々しい集団はみんな虎兄の見送りらしい。
いつもは人もまばらな閑散とした駅なのに、虎兄の回りには人垣ができていた。
一目見たら帰ろう。そう思っていたけれど、人垣に阻まれてよく見えず近付きすぎた私ときょろきょろと視線を彷徨わせていた虎兄の目が不意に、合った。
「――なまえ!!」
いつもの大声で呼ばれた私の名前に、鼻の奥がつんとした。
人垣をかきわけてどかどか駆けてくる虎兄。その腕に、あの日私が置いていった紺色のコートがあった。
「へへ、絶対に来ると思ってな。忘れもんだ」
そう言って、虎兄は私にそっとコートをかけてくれた。
再び感じた重みは、コートそのものでも私の心のせいでもない。
のしかかるように抱き締めてくれる、虎兄のたくましい巨体のせいだった。
「――なあ、なまえ。約束する。
今よりもっといい男になって帰ってくる」
「…………とら、にい……」
「だからよ、お前ももうちっとだけいい女になって待っとけや」
身体が離されて、ついすがりつくように指先が動く。
見上げた虎兄は今まで見たことがない、とろけてしまいそうに優しい目をして……私の指に自分の指を絡ませるように繋いだ。
「そん時は、俺の嫁になれよ」
答えられなかった。声なんて出なかった。
ただ、その胸の中に飛び込んだ。
今はまだ、腕の中で頷くのが精一杯だけれど――いつか。
。
いつか自信を持って、笑顔であなたの手を取れるように。
「……いってらっしゃい、虎兄」
「おう、行ってくらあ」
虎兄の乗った電車は遠ざかり、やがて消える。
一生懸命我慢したけれど、帰って布団に潜ったあとにやっぱりほんの少しだけ泣いた。
* * * * *
「――――お……お前、何だってここに?」
「待ってるとは言ったけど、会いに来たらダメとは言われてないし……」
男塾の制服に身を包んだ虎兄が、元々丸っこい目をさらに丸くして私を見つめている。
男塾学園祭……いや、愕怨祭。
女人禁制の禁が破れる数少ない日、私は遠路はるばる男塾を訪れていた。
「一人で来たのか?」
「うん。去年も来たんだけど見つけられなかったから、今年こそは絶対にって決意してきたの」
「……ああ、去年は獄悔房で300キロの鉄板支えてたからのう。半年くらい」
「ゴクカイボー?300キロ?……半年?」
やっぱりここは正気の沙汰ではない。私は怖気と共に確信する。
そしてそんな場所で、そんな仕打ちを受けながら、やたら生き生きしているこの人もきっと狂気に浸かっているのだろう。
「……私が掴まえててあげないと」
「なーに深刻な顔してんだ」
思いを新たにする私の手を、するりと虎兄が取る。
小さい頃と同じ仕草、けれど、あの頃と比べてその手はずっとごつごつしている。拳ダコや傷もたくさん出来ていた。
「しょうがねえ、ダチに紹介してやるよ。俺の嫁だってな」
「!」
にい、といたずらっぽい虎兄の笑顔には精悍さが増していて、私の心臓は急激にうるさく鳴りはじめる。
――掴まえてないと、なんて言っても、捕まっているのは結局私で。
この人が好きでたまらない私もすでに狂気へ足を突っ込んでいるのかもしれない。
「ね、虎兄の友達ってどんな人?」
「謎だらけのハチマキ男とか、根性の塊の学帽男とか、顔面神経痛の外人ボクサーとか、色々おるぞ」
「……やっぱり故郷に帰ろうかしら」
恐怖五割に不安四割。
あとはほんのちょっぴりの期待を持って、私は虎兄の愛するおかしな学舎の門をくぐるのだった。
了.
初期虎の頼れる兄貴感は異常、という主張。
延髄破暢掌かっこよすぎる。