□迷子の迷子の○○ちゃん
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「……あの、すみません……」

くい、と腰の辺りを引かれて立ち止まる。
同時に耳に届いた、今にも泣き出しそうなか細い声は男塾――それも三号生居住区である天動宮には似つかわしくないものだった。

よもや死者が彷徨い出たかあるいは化けた狐かと見下ろした華奢な人影は、黒々とした瞳を潤ませてこちらを見つめていた。
ここの制服を纏ってはいるが、まだ随分年若い娘だ。どうやら女狐らしいと結論付けた途端、既視感と共に今年入塾した一号の女がいたことに思い至った。

どことなく見覚えがあるように感じるのは、先日執り行われた大威震八連制覇の時の記憶だろうか。


「わ、わた、わたし、一号のみょうじと申します者なんですがあの」

「落ち着け」

せわしく身ぶり手振りを繰り返す娘に短く命ずれば、案外素直に自分を取り戻したらしく呼吸を整えてから深々と頭を下げた。
動きに合わせて紗のように揺れる髪をつい目で追った。

「失礼しました……私、一号生のみょうじなまえと申します。
少々お尋ねしたいのですが、ここから影慶先輩のお部屋まではどう行けばいいのでしょうか」

「影慶様の自室に何の用だ?」

「塾長からこれを渡すように言付けられまして……内容は存じ上げないのですが」

娘の懐から取り出された長方形の紙には、確かに『江田島平八』と筆で署名がされていた。
力強いその筆跡は確かにあの爺のものだ。

死天王の将へ男塾塾長直々に文とは何事だろうかとは思ったが、一介の三号に過ぎない自分が首を突っ込むわけにもいかない。
懐へ大事そうに仕舞い直す娘を見やりながら、出くわしてしまったものは仕方あるまいと腹をくくった。

「……わかった。案内しよう」

「え、そんな!お手数ですから道をお教えいただければひとりで」

「こんな奥まった場から部屋までの道程を説明する方が面倒だ。
そもそも何故こんな場所に来た?」

「……迷いました」

蚊の鳴くような声で呟いた娘に、まあそれ以外は考えられんなと納得する。

――この天動宮は鎮守直廊から大広間までは一本道だが、他の場所へ向かおうとすると中々難度の高い造りとなっている。

敷地の広大さ、薄暗さに加え延々と同じような景色が続くため非常に混乱しやすい。慣れていない者ならば迷うのも仕方ないと言えよう。

……道中手持ちぶさただったので、制服を摘まんだまま後ろを付いてくる娘にそう説明してやった。
すると娘は何故かはにかむように笑い「お気遣いありがとうございます」などと言いながら指先に力を込めた。

いい加減に離せと言いかけたが、下手に離させてはぐれられでもしたら余計に手間だ。すがりつくような小さな手は黙って見逃してやることにした。





* * *






「――ご苦労だった、みょうじ。確かに参ると伝えておけ」

「はいっ」

「それと……貴様にも世話をかけたな。すまなかった」

勿体無いお言葉をかけてくださる影慶様にいえと首を振る。
些か面倒だと思ったのは確かだが、何か火急の用があったわけでなし。

むしろちょこまかと短い足で懸命に後ろを付いてくる姿や、歩幅を緩めるとこちらをふと見上げる仕草には、妙に郷愁を誘われるような心持ちがした。

……幼子の時分に動物たちと飛び回っていた故郷の森はまだ彼処にあるのだろうか。何故かそんなことまで思い出していた。

つまらない慕情に浸っていると、いつの間に戻ってきたのか影慶様への挨拶を終えたらしい娘が目の前で腰を勢いよく折り曲げていた。

「先輩、お忙しいところご迷惑おかけしてしまって申し訳ありませんでした!
先輩が通りがかって下さらなかったらあそこで朽ち果てていたかもしれません、本当にありがとうございました!」

そう告げてから持ち上げた顔に、ふっくらした赤い頬に、まだ少女の幼さが残っている。
そのいとけない雰囲気がどことなく、幼少時に友だった獣の面影と重なった。
謎の郷愁と既視感に己の中で合点がいく。

「――女狐ではなく、子狸だったか」

「…………へっ?こ、こだぬき?」

「ふ」

急に口元を覆われた影慶様とこちらを交互に見上げながら、小娘は垂れた眉の下の円らな瞳を、しばらく白黒させていた。





迷子の迷子の子狸ちゃん
(さて、送ってやろう狸娘)
(わ、私はみょうじなまえです!)







三号生のおにいさま方が素敵だからどうにかしたかったけどどうにもならなかった。

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