魁
□真偽の程は不明
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先に入った彼らの名残か、脱衣室には湿気と熱気がわずかに残っていた。
数時間前には喧騒で満ちていた場所も今はなまえひとり。塾生達が寝静まっている時間というのもあって、周りはしんと静かだ。
「ふう……」
一日の汗が染みた衣服を脱ぎ払い、胸を締め付けるさらしをするりとほどく。解放感からか息が自然と口をついた。
ある程度鍛えられているとはいえ、男とはまるで違う曲線を描く肢体が薄暗い蛍光灯の明かりに浮かび上がる。
――男になりたいと思ったことはないが、男の身体なら彼らと風呂に入って一緒に騒ぐこともできるのだろうか。
そう考えるとほんの少しだけこの身体が疎ましく思える。
「……変なこと考えてないで、さっさと入って寝よ」
素肌に手拭い一枚だけ携えたなまえは浴室の電気をつけ、磨りガラスの戸を無防備に開けた。
……次の瞬間、なまえは「へっ」と間抜けな声をあげて固まった。
視線の先にいる、身体を洗っているらしき大柄な人影。
立ち尽くすなまえに気付いたのか、その人影は手を止めるとこちらへと首を動かした。
「…………みょうじ、か?」
白く湯煙にぼやける向こう、こもった低音が辺りに反響する。
片手に手拭いをぶら下げたまま唖然としていたなまえは、彼の声にハッとすると一糸纏わぬ自分の姿を隠した。
……最も、すぐその必要はないことに気付いたけれど。
「げ、月光?」
「お前の入浴時間だったか。すまん」
彼の光を映さない冷えた目が、なまえを的確に捕える。見えていないと知りながらも熱気が顔に集まった。
しかも目の前には惜しげもなくさらされる月光の肉体。異性への免疫があまりないなまえにとって、それは中々に刺激の強い光景だった。
「こ……こっちこそごめんなさい!今日はちょっと忙しくて、こんな時間になって……誰か入ってるなんて思わなくて」
「すぐに出る。少し待っていてくれ」
「ううん大丈夫、気にしないでゆっくり入って!私が出直してくるから」
「しかし、もう大分遅い時間だ。明日も早いのだろう」
「……う」
冷静に諭す月光に、なまえが言葉に詰まる。
確かにそろそろ日付も変わる頃だ。さっさと寝なければ明日に響いてしまうだろう。
しかし月光に遠慮させてしまうわけには……。
少々悩んだ後、なまえはおずおずとひとつの案を進言した。
「……月光、その……一緒に入っちゃだめ?そっち絶対に見ないから」
「………………」
付着した泡を洗い流そうと桶を持ちあげた月光の手がぴたりと止まった。
しばしの沈黙のあと、桶を置く音と共にいつも通り沈着冷静な声が風呂場に響く。
「……わたしは構わんが」
「ありがとう!」
月光の裸体を目にいれないよう配慮しつつ、壁際の洗い場を選んで膝をつく。これで彼に背を向ける形になる。
勢いよく頭からお湯を被ると、沸騰した頭がさらにくらくらと揺れた。
「うぅ…………んっ」
ぬるめの湯の中で、なまえはぐぐっとひとつ伸びをした。
肌から垂れた雫が水音となって小さく響く。
「……月光は今まで鍛練してたの?」
「ああ。眠る前に少しだけのつもりが、気付けばこんな時間でな」
「すごいなあ。ストイックだ」
「……うっかりしていただけだ」
広々とした浴槽の端と端。遠い距離で目も合わせず、しかし気安く話すシチュエーションは奇妙でおかしい。
先ほどよりは落ち着いたなまえは、浴槽のふちに首を預けながらうっとりと目を閉じた。
「誰かとお風呂入るの、久しぶりだな。
皆とは一緒に入れないもんね」
「……了承しておいてなんだが、こういう振る舞いは極力控えた方がいい」
「す、すみません。今後気を付けます……。
今回は時間も時間だし、月光だったから」
「どうせ見えぬ男なのだからいいだろうと?」
淡々とした口調での詰問になまえが動きを止めた。うーん、と唸りながら支えられた首をこてんと倒す。
「というより……月光なら見えてても見ないでしょ?そもそも見ても何も思わないかなって」
だって月光だよ、となまえが呟く。
例えどんなに魅力的な女体だったとしても、彼の冷静な表情を崩すことなどできるだろうか。
すぐにあわあわとパニックを起こす自分とは違って、月光は女の色香にも動じないに違いない。
月光の鋼の肉体には鋼の精神が宿っているのだ。きっと。
そんなようなことを、なまえはふわふわとしだした頭で伝えた。
「………………」
黙って聞いていた月光が口を開きかけて、すぐに閉じる。
そして「そろそろ失礼する」となまえに告げた。
「あ、は、はい。どうぞ」
きゅ、となまえが目をつむる。ざばりと波のような音がして、なまえの素肌にも反動を伝えた。
「みょうじ」
「は、はい、見てません」
「言っただろう。お前ならば見られても構わん」
「はいわかってます……えっ」
とんでもない発言が聞こえた気がして、なまえは思わず目を開けた。
いつのまにか腰にタオルだけ巻いている月光と目がかち合って、なまえの開いた目はさらに見開かれた。
――それは、月光にしては珍しい表情だった。
どちらかといえばそう、彼が仕えている男がよくするような。ほんのり意地の悪さと艶がにじむ笑み。
その目が、真っ直ぐになまえを射た。
「……いい目の保養になった。礼を言う」
「え」
「早く休めよ」
それだけ言い残し、月光は磨りガラスの向こうに消えていく。
たったひとり広い湯船に取り残されたなまえが、ただただぽかんと呆けた顔で彼を見送る。
「……………………え?」
――からかわれただけだ。そうに決まってる。
いや、でも、まさか……。
自分に必死で言い聞かせるけれど、まるで湯にのぼせたように熱のこもる身体をどうすることもできない。
自分の裸身を隠すように両腕で抱きしめながら、なまえはゆっくりと湯の中に沈んでいった。
――――――翌日。
「そういえば今日、みょうじはどうした?どうも姿が見えんが」
「それがよ、心配して部屋に行ったらあいつ風邪引いてぶっ倒れてたんだ。何でも長風呂しすぎて熱出したらしい」
「おいおい大丈夫か。相変わらずどっか抜けとるのう、みょうじは」
「ほんと、世話の焼けるやつだぜ」
――聞こえてくる田沢と秀麻呂の会話に、飛燕はふぅんと呟くと傍らの月光へ視線を向けた。
「長風呂とは、朝の早い彼女にしては珍しいですね。
……そういえば月光、貴方も昨夜は遅かったようですが」
「………………」
「皆が寝静まった後の深夜の浴室……。一体何が起きていたのでしょうね?」
「…………お前が想像しているようなことは何もない」
「おや?わたしがどんなことを想像したとお思いですか、月光?詳しくお聞かせ願いたいですね」
「…………………………」
「まあ何にせよ、寮に戻ったら見舞いくらい行っておやりなさい」
(……熱か)
自分が行っても逆効果になるだけではないだろうか。
昨夜の彼女を思い返しつつ、月光は目視できないほどの数ミリ、唇を吊り上げた。
了.
本命→ただからかわれただけ。
対抗→心眼で見えている。
大穴→どう考えても普通に見えている。