□荊姫
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お前が心配なんだ、と彼は言った。

側を離れなければならなくなる度に、自分の目の届かない場所で私が無事でいるか気がかりでたまらなくなるのだと。

そうこぼし出したのは、まだ私たちが男塾に在籍している時。
もう少し厳密に言えば、私が他組織の討伐の際に大怪我を負い、その後遺症により拳法家生命を断たれてからだった。

『日常生活に支障はなかろう。だが拳士としては致命的だ』

王大人に淡々と告げられても、思ったほど衝撃は受けなかった。
王大人が言うなら仕方ないんだろうとぼんやり思っただけで、涙も出なかった。

退室する王大人と入れ違いに病室へ訪れた彼にも話が聞こえていたらしい。その清んだ瞳から零れている水はきれいだった。

ほんの少し動きの鈍った指で拭えば、ぬるく優しいその水は余計に溢れて私の指先を濡らした。

『……すまない、なまえ』

何一つ非の無い彼が繰り返す謝罪は、敵から受けた傷よりよほど深く胸を抉り私を痛めつけた。







邪鬼様が天挑五輪大武會にて名誉の戦死を遂げたのをきっかけに、偉大な主をなくした死天王含む三号生はやがて男塾を巣立った。

長年、寝食も生死も共にした同胞たちが自分の道を進むため散り散りに別れていく。

それでもセンクウ殿は、私の側にいてくれていた。





「痛くはないか?」

「大丈夫。何年前の傷だと思ってるの」

抱いた肩口に残る私の古傷をさすりながら、センクウ殿は自分の方がずっと痛そうな顔をする。
もうとっくに痛みなど消えた場所を、いたわるように包み込む。

「昨日のことのように思い出すんだ……血塗れで頽れるお前の姿を。
……俺がもっと早く辿り着いていれば」

「私が怪我したのは私のせいでしかないの。
それに命が助かったのは、助けに来てくれたセンクウ殿のおかげなのよ」

ありがとう、心配かけてごめんなさい、とセンクウ殿の手に手を重ねる。
流麗でありながらたくましい手。私に差し伸べられた、あたたかな救い。

センクウ殿はぎゅっと握り返してくれたけれど、その表情は依然晴れないままだった。

「なまえ……また、二週間ほど家を空けなければならない」

「……そう。……いつから?」

「明日の朝には発つ。
何かあったら遠慮せず、すぐに連絡するんだぞ」

「大丈夫だってば。心配性なんだから、センクウ殿は」

「足りないものや欲しいものはないか?あれば今のうちに言ってくれ」

「食料も日用品も揃ってたと思うけど……一応確認しておく」

「そうしてくれ。俺では気付けぬこともあるだろう」

「……あの、センクウ殿、私……」

「何か、入り用なものがあったか?」

「……ううん。なんでもない」



私、一人で買い物くらい行ける。
その一言を飲み込んで、私は彼にこれ以上の心配をかけないよう笑う。

「気をつけてね」

「ああ。お前も無理をするなよ」

無理なんて、あなたがさせてくれない。
柔らかく抱き締めてくる身体を抱き締め返す。
薔薇の香気の奥に、残っているはずのない血の匂いを感じて私は強く目を閉じた。



* * *




――しまった。
そう思ったときはすでに遅く、相手の刃は私の肉に食い込み骨を砕いていた。

吹き出す多量の血液。灼けるように熱い傷口と、寒気に襲われる全身。
目前に迫る、死。

暗く染まっていく視界が最後に映したものは、目の前でごろりと落ちる敵の首だった。



……そんな悪夢、もとい過去のリプレイから目覚めた時、彼はすでにいなかった。

昇り始めている太陽がカーテンの隙間から差し込んでいる。冷たい汗をぬぐい、水でも飲もうと起き上がると何かが手に触れた。
枕元には一輪の薔薇。そして走り書きの紙片が残されていた。

【できるだけ早く戻る。
わかっているとは思うが、絶対に外には出ないように】

「…………」

肺に溜まった息を吐き出して、私は傍らの窓に目を向ける。
レースのカーテンを引いてガラス戸を開ければ、縦横無尽に走る幾重もの光の条が見えた。



家屋全体を取り囲み、ぴんと張り巡らされた刃鋼線は朝陽を受けてきらめいている。
一歩踏み込めば全身を切り刻む繊細な凶器が、窓にも扉にも荊の蔓のように絡んで行く手を阻んでいる。

するりと指を滑らせると、目視の難しい鋼線に赤が伝った。
……彼が不在時の、いつもの光景だった。






仕方がないんだ、と彼は言う。

危険に満ちた外へは行かせられない。
お前に危害を加える人間を侵入させるわけにはいかない。

俺がいない間、お前を何者からも守るためにはこうするしかないのだと。

怯える私を宥めて、抱き締めて、もうあんな思いはしたくないと呟く声は震えていた。
拒みきることは、できなかった。

これは罰なのかもしれない。
殺生を好まない優しいあの人の手を汚させ、清んだ瞳に悲しみの影を落とした私へ課せられた、愛しく甘く胸を引き裂く贖罪の日々。



「……早く、帰ってきて……センクウ殿」



庇護という名の牢獄で、私は今日も彼の愛だけを糧に生きている。



了.


束縛(物理)。




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