□さやあて
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「――桃は今熟睡中で、ああなると緊急事態でも起きない限り目を覚まさないんだ。
せっかく伊集院君が来てるのに」

「フッ。居眠りが趣味なのか、おたくらの筆頭殿は」

「授業中は起きてる方が珍しいよ」

「それでも成績トップとは、まったく大したもんだな」

「……まあ、あの授業を真面目に受けたところでねえ……」

人気のない廊下に二人分の足音と話し声が響く。

かたやブランド物のブレザーをスマートに着こなした青年。
かたや武骨な学ランで女の肢体を隠す少女。

奇妙な取り合わせの両人は、談笑しながら先ほど辿った塾長室までの道のりを引き返していた。

「熊田塾長からの用事は済んだ?」

「おかげさまで。案内ありがとうな、みょうじ」

「どういたしまして。
……伊集院君、よかったら教室に寄っていかない? みんな喜ぶよ」

「いや……お言葉に甘えたいところなんだが、我が儘を言って用事を託してもらったんでな。
早めに羅漢塾に戻って報告しないとならない」

「そっか。残念だな」

眉をへにゃりと下げるなまえに、伊集院は半ば無意識で柔らかな笑顔を向けた。
そして徐に、自分の懐へ手を入れる。

「――なあ、みょうじ。これ、良かったら受け取ってくれないか」

「え」

そこから出てきたのは、掌に収まるほどの小さな紙袋。
言われるがまま受け取ったなまえが開けてもいいかと目線で問いかければ、彼が軽く頷いた。

かさかさと軽い音を立てながら封を開けると――中から、透明なフィルムに包まれた小花柄のハンカチが現れた。

「あ……かわいい!」

「以前、貸してもらったものを血まみれにしてしまったからな……その詫びだ」

血まみれ?となまえは首を傾げたが、しばし考えた後ではたと気付いた。

先日行われた五魂遷だ。
集英組との戦闘で傷を負った彼の止血をするため、自分のハンカチを使った覚えがある。

白の無地に油性マジックでフルネームが書いてある、可愛げもそっけもない布切れ。当然安物であり、今目の前にあるそれとは雲泥の差の代物だ。

「あんなの気にすることなかったのに。
……でもありがとう、大事にする」

「どう扱ってくれても構わないが、他の男の血で汚すのは勘弁してくれよ」

「血ってなかなか落ちないもんね」

「そういう意味じゃあないんだが……」

男塾に来てから、女性的なものを身に付けるのは極力避けていたせいだろうか。
久々に触れた可愛らしさに弾む胸に、なまえはぎゅっとハンカチを抱き締めた。
そして、きらきらとした瞳で伊集院を見上げる。

「……そうだ、お礼しないと。
なにか私にできることないかな、伊集院君」

「元はといえばこっちが悪いんだ、お前こそ気にしなくていい」

「でも……」

「……どうしても、と言うならば。俺を下の名で呼んでくれないか」

え、と固まるなまえを、今度は伊集院が期待に満ちた目で見下ろしていた。

「え、えっと……それお礼になる?
というか妙に恥ずかしいような」

「剣のことは『桃』と呼ぶくせにか?」

「それは、だって、桃は桃だし……付き合いも長いし」

「妬けるな」

苦笑を浮かべるかたちのいい口元。長い前髪をかきあげ、伊集院は「それなら」と言葉を繋いだ。

「それなら……お前を、なまえと呼んでも構わないか」

「え、あ……う、うん」

「いい名前だな」

なまえ。
目を見つめられながら呼ばれた自分の名前は、何故だか甘やかな意味を持つひとつの単語のように聞こえた。



昇降口を抜けて、校門へ向かう。
門扉に背を預け佇んでいた人物に、なまえはぱちくりと目を瞬かせた。

「――よう、久しぶりだな。伊集院」

「お目覚めか。剣」

「挨拶くらいはしておこうと思ってな」

に、と交わしあう笑みを、一歩引いた場所からなまえが交互に眺める。

穏やかに凪いでいるのに、最奥までは見通せない深い海を思わせるような両者のそれは、なまえにはとても質の似ているもののように見えた。

「もう帰るのか?」

「ああ。遅れると塾長にどやされるんでな」

肩を竦めながらそう言って、伊集院はなまえに向き直る。

「世話になった」

「うん、えっと……き、京介君。またね」

伊集院と桃が同時に目を見張る。一瞬の後、目尻を薄赤く染めた伊集院が笑いながら、あからさまに照れるなまえの頭をくしゃっと撫でた。

「……いつの間に親密になったんだ?」

「何とかに時間は関係ないと言うだろう?」

「共に苦境を乗り越えて積み重ねた時間は軽くないぜ」

「……ああ、そのようだな」

ふと向けられた視線を、なまえは真正面からぼんやりと受け止める。
特にこいつの血にだけは染めてくれるなよ。囁くようにそう言って、伊集院は門の外へ足を踏み出した。

「またな、剣。――なまえ」

軽く手を挙げ去る後ろ姿が、遠くに霞んで消えていく。
やがて完全に見えなくなるまで、ふたりは言葉もなく伊集院を見送っていた。





「――桃、起きられたんだね」

「緊急事態だったんでな」

「?」

「京介君、ねえ……油断も隙もあったもんじゃない。
……ところでみょうじ」

「は、はい」

「あいつに名前で呼ばせるなら、俺にもそれを許さないと不公平だよな?」

「…………え?」



了.



VSのようなそうでもないような。



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