魁
□風邪の功名
1ページ/1ページ
蝙翔鬼の棲家には、生活する上で必要最低限のものしか常備されていない。
家具と呼べるものはローテーブルとベッドの二点で、備え付けのクローゼットには似たような衣服が数点並んでいる。
食物と言えば床下収納の中のインスタント食品と缶詰。
唯一キッチンで稼働している冷蔵庫を占領しているのは、人には言えないルートで入手している大量の血液パックのみだ。
──つまり何が言いたいのかというと、この家には、体温計も置き薬も氷嚢も存在してはいないということである。
「……げほっ」
いがらっぽい喉からひとつ咳を吐き出して、蝙翔鬼は身を起こそうとベッドに手をついた。
途端に世界が揺れるような気持ちの悪さに襲われて、小さくうめきながら逆再生のごとく倒れ込む。
全身がだるい。頭が痛い。やたら熱い呼吸を繰り返しながら、ああこれは厳しいかもしれない、とぼんやり思った。
まったく気が進まないながらも枕元の携帯電話を手探りで掴んだ。これすらもお節介な元同僚に無理やり買わされたものだ。
(……あいつは駄目だな)
『ほうら役に立ったでしょう、私の言うとおり買っておいてよかったですね』などと偉そうにのたまうニヤついた似非紳士を想像して蝙翔鬼は脳内選択肢から奴の名を消去する。
同じく『日々の鍛錬が足りんからだ軟弱者!』等の説教をかましてきそうな脳筋も消去する。
かといって邪鬼や死天王などおこがましいにも程があるというものだ。
特に卍丸などに助けを求めたらもう一度高所から突き落とされる可能性すらある。
(……消去法だ。他意はない)
言い訳じみた思考をめぐらせながら、蝙翔鬼は電話帳からみょうじなまえの文字列を検索し、通話ボタンを押した。
* * *
「──もう、びっくりしましたよ。弱った声で『世話させてやるから来い』しか言わないんだもの」
片手に一人用の土鍋と湯呑みの載った盆、片手に洗面器。
両方を床に置いてから、見慣れぬエプロン姿のなまえは困ったように笑った。
「熱は測れました?どのくらいでしたか」
「8度4分……」
「あー、高いなー。
でもお薬の前に、まずはお腹に何か入れないと」
土鍋の中身は湯気の立つ白い粥だった。なまえは小さなレンゲでそれをすくうと、数度息を吹き掛けてから蝙翔鬼の口元に寄せた。
「はい、どうぞ」
「…………」
平素であればふざけるなと怒鳴り散らして突っぱねるところなのだが、あいにく今日はその元気がない。
これは仕方ないのだとまたも自分に言い訳しつつ口を開ければ、そっとレンゲが舌に触れた。ほどよい温度のそれを口に含んで咀嚼する。
風邪のせいか味はさほどわからないが、妙にしみじみとした心持ちで蝙翔鬼は温かい粥を飲み込んだ。
「どうですか?食べられそうですか?
ゼリーとかプリンもありますけど」
「……これでいい」
「そうですか。……へへ」
嬉しそうに笑うなまえが、またひと匙粥をすくって差し出す。
二度目は一度目よりも抵抗なく受け入れた。
「先輩のお家、相変わらず何も無いですね。冷蔵庫には恐ろしい光景が広がってるし。
色々持ってきてよかった」
「……自炊は面倒だ。あいつらさえ十分に食えればそれでいい……」
「そんなんだから先輩、風邪引いたんじゃないですか?」
たまにはちゃんとしたものを食べないと身体壊しますよ、となまえは眉を下げた。
「私、作りに来ましょうか」
「…………」
「……あれ。お断りだって即答されると思ったのに」
なんとか最後のひとくちまでたいらげた蝙翔鬼は、差し出された湯呑みの中の薬湯を飲み下す。
苦さに顔をしかめると、なまえは王大人直伝ですと微笑んだ。
「よしよし、頑張りましたね」
「お前な……俺を、ガキだとでも思ってるのか」
「ほら、お布団入って、あったかくして。
ゆっくり休んだら、すぐよくなりますからね」
「…………みょうじ」
「はい?」
「……たまになら来てもいいぞ」
「え」
「な、……んでもない」
ぽんぽん、と掛け布団を優しく叩くなまえの手が、汗に濡れた蝙翔鬼の前髪を払った。
思いの外冷たい指先が心地よかった。
「……そんなこと言うくらい弱っちゃって。
元気になった後でやっぱり来るなって言っても、私聞きませんからね」
絞ったタオルが額に置かれた。
ああそうか、このせいで手が冷たいのか。
「でも、今日は帰ります。他人がいると気が休まらないでしょうから。
また明日様子見に来るので、安静にしててくださいね」
「………………あ、みょうじ……」
するりと離れていくなまえの手。
その手を追い求めるように、蝙翔鬼は反射的に熱を孕んだ自分の手を伸ばしていた。
* * *
「………………ん、ん」
──顔に感じる眩しさで、蝙翔鬼は目覚めた。
黒いカーテンの隙間から朝日らしきものが差している。
軽く頭を振ってみると、幸いにも頭痛はすっかり消えていた。
(……ずっと眠っていたのか)
ひとつ寝返りを打って、──蝙翔鬼は頭に残る眠気がさっぱり消え去るのを感じた。
「…………あ゛?」
「んー……」
自分が掴んでいる小さな手。密着している、やわらかいぬくもり。
その持ち主であるなまえはもぞもぞと身じろぎしたかと思うと、ゆっくり目を開けた。
おはようございます、と舌ったらずの挨拶とともにあくびをする。
「ふぁ……お加減、いかがですか……?」
「……だ、だいぶ、いい……」
「よかったぁ」
間延びした口調で、なまえが顔をほころばせる。
起き上がったその姿は昨日と寸分変わらなかった。エプロンだけはベッドの下で丸まっているようだったが。
「みょうじ……お、お前、どうしてここに。帰らなかったのか」
「えっ」
心底面食らったという顔で、なまえが目を見開く。
しばしそのまま見つめあった後、先に目をそらしたのはなまえだった。
なぜか頬を朱に染めて俯いたなまえは、ひどく言いづらそうにしながらもおずおずと口を開いた。
「……えっと……覚えていらっしゃらないですか?
その……蝙翔鬼先輩が『まだ帰らないでくれ』と……」
「……はっ?」
「あと『俺のそばにいてくれ』と手を……その、離していただけなくて……」
「………………」
「か、風邪の時って、誰でも人寂しくなりますから……。
……あっ、せ、先輩!? 顔が赤いです、熱がぶり返したんじゃ……!」
「…………みょうじ、悪かった。帰ってくれていい。もう大丈夫だ」
耐え難い羞恥に満ち満ちながら、蝙翔鬼は絞り出すようにそう告げた。
* * *
──余計なものが増えていく。
鍋やフライパンに始まる調理器具。冷蔵庫の中の食材。
ふたりがけのソファ、食器と箸、それから。
「──蝙翔鬼せんぱーい、用意できましたよー」
「……今行く」
……余計だと言っていられるのは、いつまでだろうか。
胸に残ったままの熱を感じながら、蝙翔鬼はふたりの食卓へと向かった。
了.
蝙翔鬼先輩を甘やかしたい。