□SS/過去拍手
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(剣桃太郎)

※ほんの少し獅子丸の母親についての記述がありますので苦手な方はご注意ください。
※時系列や場所は矛盾してます。





「なまえ」

背後からの柔らかな拘束と共に耳朶をくすぐる甘い声。
シンクの前で瞬時に身をすくませる私に気付いているだろうに気付かないふりをして、彼はそっと両腕に力を込める。だから私はもっと身体を固くして彼を拒むのだ。

「剣さん、私、忙しいんです。ふざけているならやめてください」

「……随分と他人行儀になっちまったな。
同じ釜の飯を食った仲だってのに」

「今は雇用主と家政婦で、しかも仕事中です。昔の同輩でも一線は引かせていただきます」

「真面目なところは昔のままだ。……お前のそういうところ、好きだぜ」

耳元で紡がれる吐息を含んだ囁きに身体がふるりと震えた。
好き、の言葉に反応した訳じゃない。くすぐったかったから、ただそれだけで。

「……やめて、ください。わかるでしょう、お皿洗いの途中なんです」

「明日でも構わない、と雇用主が言っているんだ」

「勝手です!離してください!」

「……なまえ」

しゅるり、エプロンの紐がほどかれる。いや、と反射的に叫んだけど彼はお構いなしにむしりとって遠くへ放った。
――次に手をかけたのは、ブラウスのボタンだった。

「いや、いや!もうこんなの、いっ……んぅっ!」

「大声は出さないでくれ。獅子丸が起きる」

あの頃と同じ、大きくて熱い手のひらが私の口を覆う。
ゆるんだ涙腺からぼろぼろ零れた雫が、桃に伝ってシンクに落ちた。

「なまえ……」

磨いたシンクに映り込む彼の顔が歪む。
どうしてそんなにつらそうな表情をしているんだろう。意に添わない行為を強いられているのは私なのに。子供までいる男の慰みものにされているのは、私なのに。





――ねえ、獅子丸君の母親は誰なの。
どんなひとだったの。
そのひととあなたは今、どうなっているの。
何もかも聞きたい、けれど知りたくない。



あなたはどんな気持ちで私を抱くの。
私はどんな顔であなたに抱かれたらいいの。
今更になって、あなたのことを何にも知らない自分に気付く。
共に過ごした数年のあなたさえももう、わからなくなってしまいそうなほどに。



「も、も……、桃……やめて。もう、やだよぉ……」

「……やっと、そう呼んでくれた」

穏やかで、嬉しそうで、寂しげな声。複雑に絡み合う感情を音にした彼は、脱力した私を支えるように首もとに顔を埋め抱き締める。
あの頃とは違う整髪料の香りが鼻を突いた。



「なまえ――愛して、いる」

私は、その言葉を、信じてもいいの。



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