□消毒
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その目が生意気だと頬を張られた。

反省が足りないと鼻を殴られた。

不愉快な痛みと耐えがたい憤懣を噛み殺しながら、俺はもう一度、心にもない謝罪を口にした。








「……首天童子」

人の引いた寒々しい鍛錬場に、憐れみを込めた声音で俺の名が紡がれた。

「ああ、先輩」

「夕食の時間にも姿を見せないから、またいつものかと思って……やっぱり酷い怪我」

救急箱を持ってきて良かった。そう独りごち、その女は俺の前に膝をついた。
もう慣れた手つきで濡れた布を絞り、顔の泥や固まった血液を拭いてから、救急箱を開く。

「消毒するね。少し沁みるけど、我慢して」

「……っ」

「あ、こら、口噛まないで。傷が広がるでしょう」

冷え切った指先がそっと唇を撫でる。
切れた口の端に綿球を押しあてようとするその手を、思わず掴んでいた。

「首天?……苦手なのはわかってるけど、ちゃんと消毒しておかないとばい菌が入るよ」

「……すみません」

「……。いいえ、こちらこそごめんね。優しくするから」

再開される動きに、焦燥感にも似た苛立ちが湧き上がる。

殴られるより、打ちつけられるより、これが嫌いだった。
傷口からじわりじわりと己の深くまで侵食されてゆく感覚。
冷たいくせに柔らかく触れて、あとには疼くような痛みしか残さない。

「――はい、おつかれさま。終わったよ。……立てる、首天?」

「いえ……今日はここで休みます。置いていってください」

「そんな、ここじゃ休まるものも休まらないじゃない。
肩貸すから部屋に戻ろう?離れの方だったよね」

「すみません」

肩にもたれかかるようにして立ち上がる。
わざとふらついて見せれば、慌てたように身体を密着させて支えてきた。
ふわ、と消毒液の匂いがする。色気も何もない、と内心でせせら笑った。

夜の帳が落ちた薄暗い館内を、安定しない二つの足取りだけが響く。

「こんなに手酷くすることないでしょうに」

「先輩方は俺のためを思って厳しく接して下さるんですよ」

「……本当に?」

「ええ」

そんなこと微塵も思っちゃいなかった。
付けられた傷のほとんどは憂さ晴らしであったり、なかなか芽が出ない低能の妬みであったり、ただの後輩いびりであったり。
なんにせよこちらが強く出られない事を知っているからこその一方的な暴力だった。

「……あなたは優秀だものね」

「…………」

居合わせてたらかばってくれるのかよ、と言いかけて、やめた。どうせ辛気臭い顔で黙り込んでから安い謝罪をするのだろう。
つまらないくらい簡単に想像がついた。

「あ……ここで、いいんだっけ」

「はい。……出来れば戸、開けてくれるとありがたいんですが」

「ん、どうぞ。じゃあ私、何か食べるもの持ってくるか、ら…………っ!?」

ぎい、と軋みながら開いた部屋の中に、俺は無理矢理そいつを押しこんだ。
受け身も取れず身体をしたたかに打ちつける女を見下ろしながら戸を閉め、鍵をかける。
激痛と驚きに顔を歪めて絶句しているそれを持ち上げて、寝台に放り投げた。

その上に覆いかぶさると、ようやっと女の顔に恐怖の色がちらついた。

「いい顔ですね、先輩。いつもの愛想笑いよりずっとそそる」

「……首天?」

「さっき言ったじゃないですか、優しくしてくれるって。
傷だらけの俺を慰めてくださいよ」

「待って、何を――やめて!」

組み敷きながら、ああ、所詮は女だな、と思う。
少しばかり年上だったと記憶しているが、筋肉量も腕力もまるで違う。ついでに肉の付き方も。

「首天、どうしたの、やめて……!」

「――あんたが一番嫌いだ」

「……え?」

「見て見ぬふりをする癖に、聖女ヅラして俺に構うあんたが一番鼻につく」

「そんな……そんな、つもり……」

俺の下で言葉を失う女の道着をはだけさせる。
剥き出しの素肌に齧りつけば、痛い、という悲鳴と共に赤い歯型が滲んだ。

「……あんただってあいつらと一緒だ。取り繕ってる分あんたの方がタチは悪いがな」

「首天……」

「さっさと拒絶しろ。殴って、突き飛ばして、逃げるなら追ったりしない」

がり、がり、小気味いい音がその肌で鳴る。
もう痛いとも言わず震えるだけのその女に余計苛立ちが募った。
傷口に塗り込むようわざとゆっくり舐めあげてやれば、ひ、とくぐもった泣き声を上げた。

「……二度と俺に近づけないくらい傷つけばいい。
弱々しくお優しいその御心に、痛みと負い目を抱えて生きてくださいよ」

「…………」

「……先輩?」

先程まで激しく抵抗していた女の身体が弛緩しているのに気がついた。
恐怖で失神したか、と舌打ちして前髪を掴み無理矢理顔を上げさせる。今だ光を失っていない潤んだ瞳と目が合った。

――薄く開いた唇が、ゆっくり「いいよ」と動いた。

「…………は?」

「いいよ、首天。……おいで」

「っ、な」

女の胸に顔が埋まる。
両腕に頭を抱えられているのだ、と分かったのは少し間を置いてからだった。
消毒液のかわりに、何やら甘ったるい匂いが鼻をかすめた。

その香気に、柔らかい肌に、髪を撫でる指先に、背筋がぞくぞくする。
……違う、これは怖気であって、妙な感情などではない。
自分自身に対する言い訳を、どこかで自分が嘲笑った。

「私でいいなら、好きにしていいよ」

「……何を言って、あんた」

「あなたが楽になるように、私を使って、いいよ」

だいじょうぶだよ。ごめんね、首天。

そんな言葉が耳ヘ届いたのと同時に、ひどく沁みる何かが唇に触れた気がした。





――それからはもう覚えていない。
いや、何も覚えていないわけではないが、それはとても断片的だった。

先輩、と縋りつくように繰り返す自分の声。ずっと頭を撫でていたてのひら。幾度も唇に触れた柔らかな熱、吐息。
何を思い出してもいちいち気分が悪くて、吐き気がする。

「――今日はまた、ひどいね」

「つっ。……誰のせいですかね」

「え?」

「身が入っていない、何を呆けているんだ、と叱られました」

「……それ、私のせいだって言うの?」

「さあ」

ひきつれて痛む口を弧のかたちにする。目の前の女が困ったように眉を寄せた。

「……なまえ、先輩」

「ん?」

「今日も勿論来てくれますよね」

「……うん」

はい終わり、おつかれさま。そう言って、彼女が静かに救急箱を閉める。

じんじんと疼く傷口をひと撫でした。そこに残るものは痛みというより、痛みを伴う熱なのではないか。
そんなとりとめもないことを思う。

「……なまえ先輩にたくさん甘えていいんだよ、首天」

「…………」

ああ、本当に気持ち悪い。
胸にぼんやり灯る火を認めたくなくて下唇を噛む。
こら、と微笑みながらつついてくる女の指先に、俺はがぶりと噛みついた。





了.


狼髏館は陰湿そう。




 

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