魁
□白昼夢
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「これは、君が望んだことなんですよ」
気がつけば私は、先輩の胸の中にいた。
白昼夢
私の望み――そうだっただろうか?
そうだったかもしれない、と思った瞬間、つよく握りしめていた拳からふっと力が抜けた。あれほど激しかった動悸も、次第に緩やかなペースを取り戻していく。
彼の口調は焦れたようだったけれど、表情は先ほどと寸分も変わっていない。目をすぅっと細め、口の端を片方歪ませて、余裕綽々と言った風情だ。
「……先輩、あの」
「大丈夫、優しくしますよ。手荒には扱いません。
君は私の、可愛い後輩ですから」
髪を梳く手が滑らかで、心地いい。
滑る手のひらが顎に落ちて、くいと上向かせられる。彼の顔が目の前に迫っている。
いつの間にか欲の滲み始めた瞳に背筋が震えて、もう一度彼の胸に顔を隠したくなったけれど、優しい指先はそれを許さなかった。
「だめ。よく顔を見せて」
「……でも……先輩」
「往生際が悪いですよ。これは、君の願望なんですから」
「…………」
そう言われては、抵抗もなにも出来なくなる。
観念して力を抜き、伏し目がちに彼を視界にとらえた。額に柔らかいものが触れる。彼の唇だ、と一拍置いて気がついた。
いい子だ、と耳元でささやかれてぞくっとする。そのまま、耳を食まれて身体が小さく跳ねた。
「ひゃっ」
「ふふ、可愛い反応するじゃないですか……もう少し声に色気があると、尚いいんですが」
ちゅ、ちゅ、とついばむような口付けを落とされて、意思と関係なく身じろいでしまう。
彼の唇に反応している。そう思われるのが、たまらなく恥ずかしかった。
「っ、耳は、くすぐったい……です」
「おや、お気に召しませんか?その割には真っ赤ですよ、ここ」
自分で見えない位置のことを指摘されて、顔に血が集まるのがはっきりとわかった。小憎らしくくすくすと笑われて、更に羞恥を煽られる。
「可愛い」
「……ディーノ、せんぱ……い」
力強い腕が、ひときわ私を強く引き寄せる。あらわにしていない熱情に、触れた場所から否応なく気づかされる。
背筋を震わせたものは恐怖だったのか、それとも期待だったのか。それすらもう、甘く脳内にかかるもやに阻まれてわからない。
額がくっついてしまうほどの至近距離で、彼は、恐ろしいほど妖艶に微笑んだ。
――――そこで目が覚めた、なんて、いくらなんでもお約束過ぎるのではないだろうか。
「……………ぅぐ、う、うぅう」
目覚めたばかりで動きの悪い脳内が、頼んでもいないのに先程の光景をリピート再生している。あまりに理解不能な方向へめくるめいている内容に、思わず呻く。
あぁもうやめてくださいお願いします、私が悪かったですから。
どうしてこんな時、脳内は自分自身の言うことを聞いてくれないのだろう。涙が出てきた。
継ぎ接ぎだらけのカーテンの隙間からは、嫌味なほど爽やかな朝日が零れている。
簡素な自室の寝台の上、半身のみを起こした体制のまま、私はあまりの羞恥と自己嫌悪でしばらく動けないでいた。
もういっそこのまま消えてしまいたい。穴があったら埋まりたい。
――――しかも、しかも。
どうして、こんな日に限って、あの人とお茶の約束なんてしているんだろう。
* * * * *
「やあみょうじ君。今日もご機嫌麗し……
……くは、ないようですね。どうかしました?」
一目見て察知するあたり、この人はやっぱり聡い人なのだと思う。この状況では全くありがたくない聡さではあるが。
心の中でぎくりとしながら、私は得意技の一つである愛想笑いで対抗した。
「そそっそんなことありませんよ」
「吃音ひどいですよ。目も少々赤いし」
寝不足ですか、と聞きながらディーノ先輩は椅子を引いてくれる。先輩に椅子を引かせる後輩なんて存在していいのだろうか。そもそも私なんて存在していいのだろうか。
しかしその様子があまりにも紳士然として板に付いている為、やめてくれと頼むのも少しもったいない気がする。
今日も結局、素直に礼を言いながら腰を下ろした。
目の前のテーブルにはいい香りの紅茶とお茶菓子が乗っていた。私はあまりこの手のことに詳しくないのだが、先輩はあまり気にせずなんたらティーとやらに誘ってくれる。
「本当に何でもないんです。ちょっと夢見が悪かっただけで」
「妙な夢でも見たんですか? それ欲求不満ですよ。
『だいたい性衝動』ってフロイトが言っていましたよ」
「……フ、フロイトに怒られますよ」
夢の内容を思い返すと、そう言われても仕方がないものであったことは認めざるを得ない。
得ない、が、断じてそんな事実は無い、と思う。――た、多分。
「……今図星突かれたようなカオしませんでした?」
「っな、そんなことありませんってば!」
「真っ赤になってますけど。……へえ?」
喉の奥で含んだ笑いを繰り返す先輩。
いやな感じの笑い方に、胸がかっと熱くなった。
この人はいつもこうだ。いつだって私をからかって、困らせて遊んでいるんだ。
淹れられた紅茶をひと口飲めば、いつもと違い苦みが鋭く舌を刺した。
「で、どんな夢だったんです?」
「……も、もうやめましょうよ。他人の夢の話ほどつまらないものはないって言うじゃないですか」
「普段あまり動じない君をそこまで動揺させる夢とはどんなものだったのか、私には非常に興味深いんですがね」
ああ、失敗した。風邪気味でもなんでもとにかく理由をでっち上げてしまえばよかった。
どうして私は馬鹿正直に、夢のせいなんて言ってしまったのだろう。
また紅茶をひと口。今度は味がしなかった。
「耳まで真っ赤ですよ。初心なお嬢さん」
「先輩が……変なこと言うからじゃないですか」
「その前に変な夢を見たのは君なんですがね」
「だ、だから、そんな夢、見てませんってば!」
「じゃあ、君と褥を共にした幸運な男が誰だったかだけでも教えてくださいよ。
蝙翔鬼ですか? 独眼鉄ですか? 剣君や伊達君という可能性も捨てがたいですねえ」
「――もう、違うって言ってるじゃないですか!」
勢いで立ち上がる。
カップの紅茶を振り上げようとして、出来なかった。
私の腕は、私よりずっと強い先輩の手でテーブルに縫い止められていた。ぎりりと手首が軋んで、思わず声が漏れた。
「いけませんねえ、おいたは」
吐息交じりの低い笑みが、耳朶をくすぐる。
ぞく、と背筋が震えた。
「はっ……なし、て」
「先程君がここに入ってきた時、実は驚いたんですよ。
だって君ときたら、頬は薄く染まっているし、目だってとろんと潤んでいて――」
私の懇願など一切耳に入っていない様子で、先輩は囁き続ける。
精一杯顔を背けたけど、頬に添えられた手が私を柔らかく拘束した。視線が再びぶつかる。
くろぐろと艶めく両の目は、もう笑みを含んではいなかった。
「――唇だってほら、いっそ痛々しいほどに赤い。今日の君はどうして、こんなに煽情的なんです?」
「……っ」
「ねえみょうじ君。もしかして、昨夜君の夢路にお邪魔したのは私なのでしょうか」
「やめて、」
「夢の中で私は、君に何をしたんです? 教えてくださいよ」
「もうやめてっ……」
「言えないようなことをしたんですか? ……いや、表現が間違っていますね。
言えないようなことを『させられた』の方が正しいですよね」
君が夢に見た『私』なんですから。
そうはっきり突き付けられて、視界が滲んだ。
何も言い返せない。――だって、そのとおりなのだもの。
「夢って、潜在意識で強く思っていたことが具現化するそうですよ。と言うことは、どういうことなのでしょうね?」
熱い吐息はどちらの物なのだろう。
身体から、力が抜けていく。先輩の手はいつの間にか離れていて、私の髪をゆっくりと梳いていた。それでも私の身体は、抵抗と言う行為を完全に放棄してしまったかのように動けない。
「ついでに言えば、こんな事態になる前に逃れられる機会は沢山あったと思いますよ。
君だったら顔を合わせるのも恥じる筈なのに、どうして素直にここへいらっしゃったのでしょう。どうして馬鹿正直に、夢の話なんてしたんです?
不器用にごまかしたりする前に、出来ることはいくらでもあったでしょう?」
――わからない。もう、なにも考えたくない。
お願いだからこれ以上、何も言わないで。これ以上、
「つまりね、みょうじ君」
私の中の何かを、暴いてしまわないで。
「――――これは、君が望んだことなんですよ」
気がつけば私は、先輩の胸の中にいた。
了.
正夢もしくは無限ループ、あるいはヘルズマジックか何か。