魁
□放課後ふたり
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荒っぽくひび割れた窓からは、ほんのりと水分を含んだ風がそよいでいた。
その流れに任せ、さやさやと慎ましくささめくその細髪は、たそがれの陽光を受けて錦糸のようにきらめいている。
――夕暮れの色に染まった教室で、ひとり窓側の自席に佇んだ彼の姿は、まるでつくりものめいた調和でそこに存在していた。
放課後ふたり
「…………、」
「どうかしましたか」
気配で察していたのだろうか。
艶やかな長髪を揺らし振り向く彼は、そこにいるのがなまえであることを既に感づいていたようだった。
中性的な相貌を悪戯っぽく細めて、言葉を接ぐ。
「そんなところで呆けていないで、入ったらどうです?」
「……あ、う、うん――ごめん。ちょっと、忘れ物しちゃって」
反射的な謝罪と言い訳じみた付け足しをしてしまってから、別にそんなもの不要だったと思う。
悪いことをしているわけでもないのに、自分はいったい何を言っているんだろう。頭を二、三度振って、なまえはぼやけた意識を切り替えた。
――図書室で読書に夢中になるあまり、迫っていた下校時刻をすっかり忘れていた。焦って校門を飛び出した所で、自分が鞄を持っていないことに気付いたのだ。我ながら実に抜けている。
なまえは手早く用事を済ませるため自分の席へ小走りに向かって、机の中に手を差し入れ……頓狂な声を上げた。
「あれっ?」
妙なものがあったわけではない。むしろそこには、何も無かった。
確かに入れておいたはずの、塾指定である素気ない肩下げ鞄。それは筆箱や教科書、ノート等の入り要な物が入ったまま忽然と姿を消していた。訝しげに首を傾げながら机の中や周囲を見渡してみても、どうにも見当たらない。
ここでは無かったのだろうか。しかし今日は宿舎と教室の往復しかしていないのだから、他所にあるとは思えなかった。
「失せ物見つからず……といったところでしょうか」
くすくす、と囁くような笑い声が遠くに聞こえた。
振り仰げばいつの間にやら、頬杖をついた飛燕が愉快そうにこちらを眺めていた。もう片方の手には編み棒が握られていて、そこから伸びた紺色の毛糸が、規則正しい網目を構築していた。
「……楽しそうだね」
「そんなことはありませんよ。あなたが困っているのに」
妙に芝居がかった口調に不信感を煽られて、なまえは上目づかいに飛燕を見遣る。飛燕は相変わらず、底の見えない表情をしていた。
「……ねえ、飛燕は知らない? 私の鞄。
多分ここにあったと思ったんだけど」
「ええ、数分前までそこにありましたよ」
予想外の答えに、なまえは驚いて目を見開いた。
「本当? じ、じゃあ、今はどこに行ったの?」
「ふふ。ちゃんと今もありますよ、――ここに」
待っていたとばかりに満面の笑みをした飛燕は、自身の机の中から重量のありそうな鞄を取りだした。
中身を詰め込み過ぎて少々歪になったそれに、なまえは見覚えがあった。そして、金具部分につけられたタグに自分の氏名を見つける。なまえは、ほっと胸を撫で下ろした。
何故自分の鞄が飛燕の机の中にあるのか、なんて深く考えもしなかった。
「ありがとう、飛燕――――」
「おっと」
礼を言って受け取ろうとした掌が、空を切った。
笑顔のまま、飛燕はなまえの鞄をしっかりと胸に抱えていた。
「………え?」
「結構重たいですね、これ。
どうせあなたの事だから、使いもしない教科書を律儀に詰め込んでいるんでしょう?
まったく素直というか、要領が悪いというか」
呆れたように片眉を上げる飛燕に、なまえは戸惑いつつも少しだけむっとした。
「そ、そんなの私の勝手だよ。悪いことじゃないんだからいいでしょう。……返してよ」
「嫌ですよ。
ふふ、あなたの腕力では、往復するのも大変でしょう? 寮まで私が持っていってさしあげますよ」
「は……?」
決定事項のようにそう告げて、飛燕は軽々と自分の肩に鞄を掛けた。その動作があまりにも自然で、なまえは拒否するタイミングもわからず、あっけにとられて立ちすくむ。
そんななまえに、そのかわり、と言いながら飛燕は隣の席の椅子を引いた。
「もう少しで仕上がるので、それまで待っていてくれませんか」
「…………」
場の空気に押されて、なまえは言われたとおりに腰をおろしてしまった。……よくわからないが、意地悪をされているわけでもないらしい。
飛燕はその様子をしばし柔和な表情で見つめてから、編み物をする作業に戻った。
「…………」
「…………」
無言の時間が続いた。
手持無沙汰で、なまえはぱたぱたと足を交互に跳ね上げる。それもしばらく繰り返しているうちに、すっかり飽きてしまった。
仕方がないから、飛燕の手元を覗き込んだ。すんなりと長いけれど、やはり自分よりは骨ばっている指先が滑らかに編棒を操り、一本の糸を平面に作りかえていく。
――きれいだなあ、と思った。
「きれいだね」
「……ええ、いい色でしょう?」
自分の編み物の腕ではなく、色を褒められたと考えたらしい飛燕は、手を休めないままそう言った。落ち着いた色合いは確かに好ましいと思ったので、特に否定はしなかった。
「何を作ってるの?」
「セーター」
「…………すぐ完成する、って言ったっけ?
これ、まだ手のひらくらいの大きさに見えるんだけど」
「正解です」
「えっ?」
「答えは手袋でした」
「…………」
飛燕は同じ糸で編まれた片割れを胸元から取り出すと、こちらの机の上に放った。
フィンガーレス、というんだったろうか。第二関節から指先は無かった。シンプルながら丁寧な作りで、小さな丸っこいシルエットとも相俟ってとても愛らしく見える。
「さ、こっちも出来ましたよ」
その言葉にぱっと視線を移すと、いつの間にかそれは見事に完成していた。魔法のような速さに驚く間もなく、飛燕はうやうやしげに、なまえの手を取った。
するり、と完成したばかりのそれが嵌められる。
何故かサイズはぴったりだった。
目をぱちくりさせながら為すがままになっている彼女は気にも留めず、飛燕はもう片方もきっちり嵌めてやる。その儀式めいた行為が終わると、飛燕は満足したように椅子から立ち上がった。
「――では、帰りましょうか。もう大分、日も暮れてしまったことですし」
「……あ……う、うん」
外を見れば、既に空は朱ではなく群青に色を変えていた。風が温度を失くし、ひゅうっとせせら笑うような音を立てる。
飛燕は先程の言葉通り、鞄を持ってくれるようだった。飛燕の分は持とうかと申し出てみたのだが、やんわり断られた。
「すべて私の勝手だということをお忘れないように。
言い換えればあなたは、鞄を人質に取られ身柄を拘束されていたんですよ」
今日の彼は特に、何を考えているのかわからない。
飛燕の斜め後ろを歩みながら、なまえはふと両手をあたためる毛糸の感触に目を落とした。
少し前まで飛燕の手の内にあったそれが、今ここに嵌められている。それは、とても不思議なことのように思えた。
「飛燕、これ、くれるの?」
「ええ。お気に召しませんでしたか?」
「ううん、違うけど。
あ、じゃなくて、その、ありがとう」
「どういたしまして」
そう言いながら、階段の踊り場で、飛燕が肩越しに振り返る。そして、まるでそれが当然だとでも言うように、なまえに片手を差し伸べた。
ついさっき鞄を奪った時と、椅子を引いた時と、その雰囲気はまったく同じだった。
だからなまえも同じように、すんなりとその手を取ってしまった。
取ってから数秒遅れて、手を繋いでいる現状にぎょっとする。したけれど、今更引っ込めるのも妙な気がしてなまえはただうつむいた。
「暖かいですか、手袋」
「…………、うん」
「よかった」
頷くだけで精一杯になりながら、なまえは少しずつ血の上ってくる頭でぼんやり考える。
――――指先まで、きちんと作って欲しかった。
直に感じる飛燕の温度を、感触を、妙に意識してしまう。
「……私も、暖かいですよ」
初めて、自分がどきどきしていることに、気付いた。
了.
くどくないさらっとした文章を書きたい、と切に願ってみる。
飛燕はなんかひねくれてるイメージがあります。一筋縄ではいかないというか。
優男前な飛燕も好きなんだけどなあ。