□押しかけ逢瀬
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「こんばんは、先輩」

全天に、無数の針穴を空けたような星月夜。
囁きに似た静かな声音でも、冷えて透き通った夜闇の中で、それは不思議とよく響いた。



押しかけ逢瀬




少し前から気配は感じ取っていた。別段驚くこともせず、蝙翔鬼は声の方を振り返る。平静な声とは対照的に、屋根へ登ってくるその姿はだいぶ必死だった。

「よい、しょっ……と、……おわっ。
わたたたっしまったこの体制はまずい、あぁあ落ちる落ちちゃう」

「楽しそうだな、みょうじ」

「何てこった手も貸してくれないつもりだよこのお人は」

「手は貸してもらう方が得意なんでな」

ずり落ちかけながらももたもたと登りきり、何とか近付いた蝙翔鬼の隣でみょうじなまえは掠れた呼吸を繰り返した。

「右手なら、貸してやってもよかったんだが」

「……義手ごと落とされるんですね、わかります」

私の勝手でお邪魔してるんだから仕方ないけど、と呟くなまえに、わかっているじゃないかと返して蝙翔鬼は意地悪く笑む。

せっかくの独りの時を、へらへらと邪魔しに来るお前が悪いんだ。
そんな思いで蝙翔鬼は、なまえの姿に視線を移した。

寝巻に薄い半纏を羽織った姿は、一旦宿舎へ帰ってからわざわざ天動宮まで足を運んだのだろうと推測させた。

風もすっかり冷えたこんな夜中に、宿舎から抜け出して何をしているのか。
自分以外の面々ならばそう注意するのだろうが、あいにく蝙翔鬼はそんなことを言ってやるほどの義理はない。
ただ呆れたように、肩をすくめただけだった。

「夜風に当たるのもいいですけど、ほどほどにしないと風邪引いちゃいますよ」

「そうだな」

わざと身の無い返事を返すと、なまえは気まずそうに目を伏せて黙る。
自身が口うるさいことは、少しばかり自覚しているらしい。

が、一拍置いてすぐ、彼女は半纏の内に手を入れてごそごそと、何やら取り出した。

「…………あったかいですよ。
よろしければ一杯、いかがです?」

銀色をした、小さい円筒形の水筒。なまえはそれを持ち上げて、軽く揺らした。
返事も聞かないまま、付属のコップふたつへ器用に注ぐと、片方を蝙翔鬼に差し出す。

濃紺の景色をほのかに白く染める湯気が、緩やかな熱を教えていた。

突っぱねようかと思ったがそれも面倒だ。無言で受け取ったコップの中には、実に薄そうなコーヒーが入れられていた。

察知したのか、なまえは取り繕うかのように付け加える。

「アメリカンですよ」

「ただの薄いインスタントをアメリカンとは呼ばん」

ふん、と鼻を鳴らしてから口をつけた。口内へじわりと流れ込む、ぼんやりした苦みを味わうこともなく飲み下す。
旨いとは思わないが、まだ残る温かさはそれなりに快よかった。

「──今夜は、新月ですね」

間延びした口調が、空中で白く色づく。特に答えることをせず、蝙翔鬼はもう一度コーヒーに口を付けた。

「お月さまは怖いから、時々雲隠れしてくれるのはありがたいです」

「怖いか?」

「怖いですよ」

大きいし、明るいし、ついてくるし、と冗談なのか本気なのかわかりかねる理由を並べながらなまえもコップの中身を啜る。わずかに顔がしかめられたのは、苦みのせいか。

「それに暗ければ、怒ってる先輩の顔も見えませんしね!」

「……俺の怒りが失せるわけでもあるまいに」

コップの残りを一気に煽る。中身はすでになまぬるく冷めていた。
からになったそれを押し付けてから、蝙翔鬼はざっときびすを返す。

「……あれ? も、もうお帰りですか?」

「程々にしないと風邪を引くからな。
お前は好きなだけ、そこに居ればいいだろう」

外套が翻り、夜風を孕む。思いの外冷たく感じて、蝙翔鬼は眉を寄せた。

「………………。
……わかり、ました」

同時に聞こえた彼女の声は、その風に紛れそうなほどか弱かった。

構わずそのまま歩を進めようとして────うっかり、蝙翔鬼は振り向いた。

「みょうじ」

「……はっ、はい?」

「砂糖」

「え?」

「……次は砂糖入れてこいよ」

俺はブラックは好まん、と付け足してやって、蝙翔鬼は今度こそなまえに背を向けた。

……月が出ていないことに、少しばかり感謝する。



「はっ……はい!蝙翔鬼先輩!」

後ろで急にはしゃぎだすなまえが無性に苛つく。
明日は取りあえず、出合い頭にはたいてやろう。

理不尽な決意を固めながら、蝙翔鬼は迎えに来た愛しい蝙蝠たちに、そっと手を伸ばした。



了.




蝙翔鬼熱がおさまらなくて楽しい。

蝙翔鬼先輩は夜中、高いところでぼんやり地上を眺めてそうな気がします。
妙な誤解されながら。

めんどくさいめんどくさい、ってうんざりしながら何となく全力では突っぱねない、そんな感じの蝙翔鬼先輩でお送りしております。

あとブラック苦手だったらかわいい。
 

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