□只の戯れで済む内に
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男塾三号生の居住区である天動宮への使いを終えたなまえは、固い表情で一人廊下を急いでいた。

閻魔の三号生、と称される先輩方の住処なだけあって、天動宮の空気はぴりぴりと張り詰めていた。目に見えぬ威圧感や圧迫感を肌で感じてなまえはそっと息を吐く。

まだ未熟な一号生である自分の身には、この空気は少し重い。

自然と足が早くなり、駆け足にも近い速度でなまえは歩を進める。だが、

「え?」

予期せぬ事態に、思わず足を止める。

後頭部で一つに括っていたはずのなまえの髪が、不意に抵抗を無くしぱさりと広がったのだ。

「あれ。髪紐切れたのかな」

そう思ってなまえが手を伸ばす、それより先。
妙な手つきで髪を解く、何者かの指先がふとうなじに触れた。

「…うわぅっ」

「おや、良い反応だ」

「だっ、誰だっ……

って、……ディーノ先輩!」

いつの間に後ろに立っていたのか。ぞわっとして振り返った先には、シルクハットに黒いマント。カイゼル髭を生やした、胡散臭い似非紳士が立っていた。
男塾三号生である、地獄の魔術師こと男爵ディーノはこれまた胡散臭くにこにこと笑顔を浮かべていた。

「やあ、みょうじ君。ご機嫌うるわしゅう」

「あ、どうも…じゃなくて。
いきなり何をなさるんですか、驚いたじゃあないですか」

「おや、それはすまなかった」

本当にすまないと思っているのか、いささか疑問の残る口調でディーノは言った。

「今から君に触れますよ、と一言断れば良かったですか」

「そういう事では無いかと……」

なまえが呆れた口調で否定すると、ディーノはその様子が愉快だったらしく、くつくつと笑った。

そう。彼は、いつだってそうだ。

どこか人を食ったような態度で、煙に巻いたり言質を奪い、簡単に相手を手玉に取る。
どちらかと言えば素直で単純ななまえなどは、彼の格好の獲物なのだろう。

「髪紐取ったんですか。返してください」

「君はやはり、そうして髪を下ろしている方が似合う。思った通りだ」

「意地の悪い事をしないでくださいよ、先輩」

「フフッ、意地悪をしたくもなりますよ。そんな困り顔で見上げられてはね」

でも意地悪をしすぎて、嫌われるのも私の本意ではありませんしね。
そう小さく呟くと、ディーノはなまえに再び後ろを向かせた。

「せめてものお詫びに、私が結って差し上げましょう。
動いてはいけませんよ」

「えぇ?そんな、子供じゃないんですから自分で出来ます」

「まあまあ。そう遠慮なさらず」

ディーノの指が、ゆるゆるとなまえの髪を梳いていく。その慣れた手付きと相反する、男性特有の節くれ立った手の感触を感じ取って、なまえは何故だか少し感心した。

肩より少し長めの髪は、毛先は揃わず跳ねているものの、取っ掛かることは無く流れていく。

滑らかな手触りに、ディーノの口の端が意図せず上がった。

「君は化けるでしょうねえ」

「……はあ。
どういう意味でしょうか」

「女性に戻ったら、さぞや愛らしかろうという意味です」

元々手先の器用さは人一倍のディーノにとって、髪を結うことなど雑作もない。

先程奪った髪紐を、纏めた髪に巻いていく。白いうなじが露わになって、ディーノはまた意地悪をしたい衝動に駆られた。

「なんと。私は確かに女ですが、今は男塾の塾生ですよ。そんなこと仰らないで下さい」

「男として扱え、ということですか?」

「できればそうしていただきたいですねえ」

「不可能ですよ、みょうじ君」

ディーノのその言葉と、なまえの首筋にちりりと走った熱い痛みは、ほぼ同時だった。

「──ぎゃっ」

びくっと身体を震わせたなまえは、慌てて身を翻しディーノから離れた。
それを追おうとはせず、ディーノは先程の場所に立ったままなまえの動向を見つめていた。

「…な、なにを?」

「やはり其処が弱いんですねえ。良い声だった」

「……ディーノ先輩が何かいやらしいことを言っている。
いやいやそうでなくて、何をしたんですか」

「悪戯ですよ。ほんの些細なね」

なまえは首を押さえたまま、気まずそうに目をしばたかせた。

──まだ、彼の唇の触れた感覚が、残っている。

「これで数日は、髪を下ろした君が見られます。
痕が見えても構わないと言うなら、それはそれで楽しめますが」

「…そこまでなさいますか」

「おや、そろそろ日が暮れるようだ。
早くお帰りなさい。その痕が全身に及ぶ事になる前にね」

「言われなくてもそうさせていただきますよ、好色ディーノ先輩」

耳まで赤いのが自分にもわかるのだから、意地悪く嗤う彼にははっきり見えてしまっているのだろう。

悔しさと恥ずかしさで胸が支配されて、なまえは後ろも振り返らず廊下を駆け抜けた。

首筋が、灼けるような熱を持っていた。






只の戯れで済む内に
(帰りなさい、可愛い人よ)




翌日──



「──みょうじ君、何ですかその首の包帯は」

「おはようございますディーノ先輩。
これですか?昨日悪い虫に刺されたんですよ」

「…そこまでしますか?」

「フフ。お互い様ってとこですよ」



了.



ちょっかいを出したり意地悪してみたり、むしろセクハラだったり、飄々とスキンシップだとのたまいながら目だけはやたら本気だったらいい。


 

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