□闇に添う
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先輩、先輩。

呼ばれ慣れないその響きは鼓膜を震わせ、濁り澱んだ汚泥の最中のような闇を、軽々切り裂き掻き回す。

笑みさえ浮かべながら、雑作ないことのように、その唇は紡ぎ続ける。

先輩、蝙翔鬼先輩。

嬉しげに何度も何度も繰り返される度、胸がざわついてきりきりと痛んだ。
やめろと叫ぶ声は、しかし寸前のところで嚥下されて奴には届かない。

だから今日も、繰り返されるのだ。






闇に添う







「押忍、蝙翔鬼先輩!みょうじなまえです、失礼します!」

俺の返事も待たず、昼であっても暗さに満ちた俺の自室に滑り込む、奇妙な一号生。

天井でひしめき合う蝙蝠達ももう慣れてしまったのか、奴の登場にもぴくりとも動じない。まるで至極当然のように受け入れているのが、癪に触った。
動揺しているのは、俺だけか。

「…何の用だ、みょうじ」

「先輩にお会いしたく思いまして」

暗闇に慣れきった俺の視界の中、穏やかに奴が笑む。

「たまには空気の入れ換えでもされたら如何ですか。
空気が澱んでますよ」

「清浄な空気は苦手だ」

「へえ、そんなものですか」

あっさりと納得して、みょうじは俺と背中合わせに腰を下ろした。説得も何もない。本気でそんなものなのだろうと考えているのだろう。

決して無理矢理こじ開けようとはしない、その振る舞いだけは俺にとって少し楽だった。

「お前、毎度毎度こんな所に来て何が楽しいんだ」

「だって寮は騒がしいですから。
騒がしいのが嫌いなわけではありませんが、あそこの騒がしさは時々度を超してましてね。
その点、蝙翔鬼先輩の部屋は暗いし静かで落ち付くんです」

落ち着くだろうか。天井には吸血蝙蝠たちがひしめき、音も光も遮断され、挙げ句の果てに塾生連中からも不気味と評されるこの俺と背中合わせの状況で。

俺がお前だったら何を差し置いても御免被りたいが。

「……自分の部屋に暗幕でも引いて、引きこもっていればいいだろう。よほど健全だ」

「健全ですか?一人で暗い中、ぽつんと座っているのが?
私がそんなこと始めたら、皆がパニックを起こします」

そこで一旦言葉を切ってから、みょうじはまた口を開いた。

「それに、蝙翔鬼先輩がいないなら何をどうしても意味はないでしょう」

「…………。

…あぁ?」

一瞬、思考回路が止まった。
後ろを振り返るとみょうじは、何でもない様子で一羽の蝙蝠と戯れていた。

今、何と言ったんだ。こいつは。

発言の意味も意図もわからないまま、俺だけがただ居心地の悪い沈黙を抱えていると、ようやっと奴が振り向いた。

「あ、でも蝙翔鬼先輩が私の部屋に来て下さるなら、考えますよ」

「……だ、誰がお前の部屋など行くか!」

「そうでしょう、だから私が平穏を手に入れるためには、此処に出向くしかないのです」

ふう、と溜め息ひとつ付いて、みょうじはまた正面に向き直る。

……やたらと五月蝿く動き出した心臓が、煩わしくて堪らない。

ああ、いっそ止まってしまえ。
そうなれば、こんな息苦しさも動悸からも解放されるのだろうに。

「…変な奴だな、お前は」

「蝙翔鬼先輩に言われたらお終いでしょうね」

感情を押し込めて吐き捨てれば、憎らしいほど朗らかな声が帰ってきた。
背中が揺れて、声に出さずとも奴が笑っているのがわかった。

何が、それ程楽しいのかわからない。
俺には何一つ、理解できない。
それでも奴は俺を先輩と呼び、俺に笑顔を向ける。

そうされる度、俺はどうしていいのかわからなくなる。

「あ、蝙翔鬼先輩、眠くなってきました」

「帰れ」

「背中貸して下さいね」

「人の話を聞け」

「お休みなさい」

──背中にかかる重みが、鬱陶しくて温かだった。


了.






蝙翔鬼先輩は何でも卑屈に物を考える人だと思います。そして人付き合いも苦手な方っぽい。
私の中では彼はやたらナイーブで不器用な人というイメージが付きまといがちです。

仲間にまで不気味とか言われちゃう蝙翔鬼先輩かわいそうでかわいい。

 

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