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□例えば在ったかも知れない世界2
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「人吉くん」

 放課後の一年一組の教室。
 一人教室の席に座る善吉の姿に、阿久根高貴は思わず彼に声をかけた。
 夕陽の茜色に染まる室内。
 外から微かに届く運動部の掛け声や、オーケストラ部の演奏音。
 放課後の教室と言うものは、どこか寂しい。
 生徒がいないだけで見慣れた風景はこうも変貌を遂げる。

「あーっと……その声は阿久根先輩ですか?」

 声を頼りに善吉は高貴の方に顔を向けた。
 方向こそ合っているものの、その瞳の焦点は定まっていない。

「あぁ。こうやって話すのも久しぶりだね。最近どうだい? 眼の調子は」
「そう言われると久しぶりっすね。
眼は言われるほど不便じゃないですよ。名瀬先輩の特訓もありましたし」

 そう言って心配どうも、と屈託のない笑顔を高貴へ向けた。
 その姿は以前となんら変わりないように見えて、

「あ……とそういえば、めだかさんのことなんだが」

「黒神? 天下の生徒会長様がどうかしたんですか?」

 口に出した黒神めだかの名前。
 しかし返ってきた善吉の回答に高貴が僅かに、本当に僅かに抱いていた想いは崩れた。
 普通に聞き流せばなんの問題もない会話。
 けれどかつての善吉ならば決してあり得ない言葉。
 分かっていた。理解していた。承知していた。けれど諦めは出来なかった。
 敵対しているわけじゃない。拒絶された訳でもない。
 善吉は高貴とこうして普通に会話して、普通に笑いあうことが出来る。
 しかしそれでも、人吉善吉は変わってしまった。決定的な、どこかが。

 人吉は生徒を無くした教室だ。
 それを成り立たせるに決定的なものが欠けている。

「……いや。気にしないでくれ。
それより人吉君、どうして教室なんかに――」

『ぜーんきちちゃん』

 ざわ――と、予期せず耳に侵入してきたその声に、高貴の全身に悪寒が走った。
(いつの間に……来たんだ!? いやそれよりも――)
 その声の主は間違いようがない。
 問答無用で人を不安に、不快に陥れる過負荷。

『おっまたせー』『あれ? 高貴ちゃんも一緒?』

 球磨川禊。
 おぞましき過負荷。忌わしき異形。
 予想通りの諸悪の根源が、其処に居た。
 
 *
 
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