翡翠の雫

□君の温もりが何よりも愛しくて
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 静謐な空気を纏わせた水杜珠洲学院の一角である図書室では、窓際の席に腰掛けた状態で、寝息を零す少女の姿がある。―――隣に座る、青年の肩を借りて。


 青年―――亮司は、開かれた教書を彼女に貸した左肩のほうを動かさないように気を遣いながら、空いた右手で片付けていく。彼女の手が握ったままのペンもそっと抜きとり、開かれた筆箱の中に投げ入れて。


 そうして目の前に広げられたものを整え終えた亮司は、ようやく恋人の顔を覗き込む。吐息がもぎとられんばかりの桜桃を思わせる唇から零れ、優しい光を宿した瞳は伏せられ、長い睫毛が白皙の肌に影を落す。


 少女―――珠洲の寝顔は幾度となく見てきたが、段々とあどけなさが薄れ、大人の色香を纏い始めた微妙な年代だからか、幼く見える寝顔も何故か心を浮き立たせる何かを感じてしまう自分を諌めながら、亮司は彼女の額や頬に掛かった髪を払う。


「………ん……」


 零れた呻き声は微かなものだったが、彼女の名のような、鈴の透き通る声に聞こえてしまうあたり、随分と彼女に懸想しているようだと、亮司は再確認させられてしまう。


 まあ、かなりの長期間、彼女に想いを寄せていたので、今更だとは、思うのだが―――…。


「………ん、ぅ……あ、れ…?」


 思考に耽るうち、ようやく夢の世界からの帰還を果たしたらしい。珠洲はぼんやりとしたまま、亮司から離れる。


「目が覚めたかい?」


「……え…あれ…? り、亮司さん?」


 声をかけられ、その声の持ち主が誰かを悟って、急速に事態を理解した後、頭の中で眠る寸前までの記憶を辿って珠洲は赤面する。よくよく見れば、彼の着ている着物の左肩のあたりに、皺も寄っているではないか。


「ご、ごめんなさい! せっかく勉強教えてくれていたのに、寝てしまって……っ」


「いや、平気だよ。それくらい疲れていたんだろう? 休めるときには休んだほうがいい」


 なにより、と亮司は少し悪戯を企んだような顔でふわりと笑う。


「……気を抜いて眠ってしまうくらい、僕の隣は落ち着くんだと思えば、むしろ喜ばしいことだからね」


「………っ」


 平然と口にされた言葉に、珠洲は羞恥に耐え切れず顔を俯かせるが、零れた髪が曝け出した耳さえも赤いことに亮司は目敏く気づき、笑みを深くする。


「……もう遅いことだし、今日は帰ろうか」


「そ、そうですね……っ」


 放課後にやってきて、勉強を教わっていたときに眠ってしまったのだから、空はもう茜色に瑠璃が混じり始めている。


 慌てて整えられた教書に手を伸ばし、鞄に押し込んで立ち上がる。そうしてその一連の行動を見守っていた彼の手を、いつものようにぎゅっと掴んだ。


 くすくすと声を漏らしながら、ただ手のひらに添えられていただけだった彼女の手の指と自らの手の指を絡ませて、亮司は図書室の鍵を持って扉を開く。


 鍵が差し込まれ、がちゃりと音を立てた後に残るのは、無人となって静寂に包まれる中ひっそりと本棚の中に並べられた多くの書物と、二人が座っていた椅子に残る、ほのかな温もりだけだった―――…。





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