神の一手を打てたなら……

□第六局
5ページ/6ページ

「そっか。んじゃ、今度進藤にお前みたいな奴がいたって言っとくよ。お前にそっくりで、藤原佐為って奴がいるって」

上手くかわしたはずが、墓穴を掘った。
それを伝えられてしまえば、ヒカルに動揺が向かう。
これ以上、自分のせいで負けてしまうヒカルをもう見たくなかった。

「それは」

行洋は止めようとした。ヒカルの調子と佐為の話を知っているから。
自分だってかつて、佐為を突きとめようとした。詮索しないと決めていたのに、どうしても気になったのだ。
それが、ヒカルなら。まだ若くて、ずっと佐為の側に居たヒカルならどうなるか。

「ヒカルに言うのはやめてください」

行洋は冷気を感じた。声の方を見ると、彼が扇子で口元を隠しながら立っていた。
――――怒っている。彼は静かに怒っていた。
誰も動けなかった。動けるはずがなかった。さっきまで温和な表情を浮かべていた青年が、とても恐ろしく思えた。

「落ち着きなさい、佐為」

行洋は我に返って佐為に言った。佐為は行洋をチラ、と見て我に返ったようだった。
寒気が走るほどの圧力が消えた。プロ達はホッと息を吐いた。

「名で呼んでんのか」

倉田の言葉に、佐為の目が見開かれた。やってしまった。
佐為は思ったまま動いてしまう。そんな癖がある。幽霊の時はそれでもよかった。誰にも聞こえず、誰に気付かれる事もない。

「な、何の事やら」

彼は慌てて取り繕おうとした。倉田はそんな彼の様子に呆れた。さっき自分が悪手を打った時より酷い。

「誤魔化すの下手すぎるだろ」

「うっ」

佐為が唸る。さすがに行洋もフォローする事が出来ずにいた。

「ふぉっふぉっふぉ」

そんな中で、桑原本因坊は笑った。いつもの掴めない拍子で。

「何やら、話せん事情でもありそうじゃな?あの小僧にしても、二時間という時間にしても」

桑原本因坊は、倉田が退いて空いた佐為の目の前の席に座った。
佐為は席について黙秘を貫いた。扇子で表情を隠す。これ以上の動揺を見せる訳にはいかなかった。

「このジジイに言ってみる気はないか?ん?」

「行洋がおりますので」

佐為は艶やかに笑った。その内心でとても焦っていた。この男は心理戦を得意とし、相手の心を揺さぶるのがとてもうまい。
別の意味で油断ならない人物である。

「桑原先生」

行洋が前に出る。牽制するかのようだった。

「皆も、彼の事は他言無用で頼むよ」

誰もが行洋の言葉に頷いた。いや、頷かざるを得なかった。
この目の前の男の、すさまじい怒り。そして、行洋の行動。下手に手を出せば噛まれそうであった。

「まあ、いいじゃろう。ただし、貸し一つじゃぞ」

桑原本因坊がそう言って笑った。だが、行洋は眉を顰めた。この男に貸しを作る、というのは厄介だった。
それを察した佐為は、扇子を音を鳴らして閉じた。

「――――では、碁で貸しをなくしましょう」

桑原本因坊はそう言った佐為を見つめた。
佐為の表情は変わらなかった。

「ふぉっふぉっふぉ、このジジイと打ってくれるのか?」

「はい。時間ももうありませんし、残り一人が限界でしょう。早碁で勝負しませんか?」

「早碁……。ふむ」

桑原本因坊は面白そうに佐為を見上げた。

「よかろう。じゃが、負けても文句は聞かんぞ?」

「私の全力をもってお相手致します。どちらが負けるかなど、分かりませんよ?」

行洋や周りにいた者達がざわめいた。佐為の実力は十分に見た。プロとして打っていないのが不思議なくらいの棋力だ。

だが、桑原本因坊は塔矢行洋すらも抑える棋士だ。緒方でも勝てはしない。
その彼と打って、勝てるのか。

「そういえば、君の棋譜は……そう、本因坊秀策によく似ておるな」

探りを入れる桑原本因坊に、彼は艶やかに笑った。

「では、"本因坊秀策"とでも名乗りましょうか」

行洋はぎょっとして、気付かれやしないかと不安になった。
佐為は余裕の笑みを崩さなかった。
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ