神の一手を打てたなら……
□第三局
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少女が試験部屋から出て来ると、和谷も伊角もいなかった。
代わりに、少女を待っていたのは。
「ああ、君」
塔矢だった。
「はい?」
「君は、藤原さん……?」
「そうですが」
塔矢は彼女の前に立った。
「君は、進藤に高みへ行くと言ったそうだな」
「はい」
「進藤はあの日、君が去った後帰った。でも、僕はあの碁会所へ行った。君はもういなかったけれど、棋譜はそのままだった。
君は、強かった。院生にならなくても、僕に勝てるくらいの実力はある」
彩花はまずいと思った。このまま気付かれたなら、ヒカルに知られてしまう。
自分の側に居た彼なら、自分が教えた彼ならばきっと打ち方を変えたとしても、気付くのだろう。
「君は、一体誰なんだ――――……?」
「私は藤原彩花。それ以外の名は持っていませんが……」
次の塔矢の一言に、少女の目が大きく見開かれた。
「S A I。Sai」
「……」
彼女は扇子で動揺を隠そうとした。塔矢は薄々勘付いている。自分の正体に。
「君は、Saiか?」
「――――どなたのことか、存じませんが」
少女は"嘘"を選んだ。
塔矢に気付かれ、明かしてしまえば……彼の唯一と言っていい程のライバルであるヒカルにも気付かれる可能性は高い。
口が堅くても、塔矢という人間は真っ直ぐすぎる。態度で気付かれてしまうだろう。
「そう、か。ごめん、忘れてくれ」
塔矢は少女に背を向けて去ろうとした。
その後の、彼女の声を聞かなければ。
「貴方も、ヒカルも同じですね。昔から」
「え――?」
しまった、と少女が気付いた時には遅かった。塔矢は振り向いてしまっていた。
以前は自分が騒ごうと、どれだけ大声を出そうとも誰にも何も聞こえはしなかった。
だけど、今は体がある。ここに生きている。
だから皆に見えるし、触れるし、気付いてもらえる。
「今、何て……?」
塔矢に、聞こえると思っていなかったのだ。
「……仕方、ありませんね」
彼女は扇子を閉じた。
「貴方もヒカルも、私を待っていてくれますか?私がいつか、貴方方の前へ現れる日を。私が、あの者ともう一度碁を打ち、神の一手へ近付くその日を」
「……待つと、言ったら?」
少女は笑った。とても穏やかに、愛しい子供を見るように。
「貴方方の前に現れた時、私が知っている事を全てお話しましょう。当然、ヒカルも一緒に」
「――――」
塔矢は考えた。この少女は、自分の知らないヒカルを知っている。それだけじゃない、自分の事も知っている。
聞きたい事は山ほどある。
「分かった、待っている」
答えは、一つだった。
「君が、早くこちら側まで上がってくるのを待っているよ」
今度こそ、彼女に背を向けて去る塔矢に扇子を広げて彼女は笑った。
「……貴方も、ヒカルも同じ事。私を、藤原佐為を探している。私はここに居ます。私が貴方方の元へ行くその日まで、どれだけ強くなったのか、楽しみにしているとしましょうか」
それからすぐに、彼女は二組の一位まで勝ち上がった。
それなりに楽しかったけれど、やはり強い者と碁を打ちたい彼女はどうすれば強い者と打てるか考えていた。
そして、ネット碁をしていない事に気付いた。
彼女は家のパソコンを立ち上げた。
「Sai……と」
ログインして、状況を見る。
名前を見ると、ところどころ見知った名前がある。Zelda、Hikaru、Akira……
「おや」
AkiraとHikaruが対局していた。今日は二人とも離れているようだ。
彼女が覗いて見ると、形勢は互角。思わず微笑んだ。
「(本当に、ヒカルは強くなりましたね。あの塔矢相手に、互角に戦えるほどにまで……)」
それから、他の対戦相手も見てみた。すると、対局の申し込みが来る。
「!」
どうやら、ネット棋士Saiの復活は世界中で知られてしまっているらしい。
Saiが復活したのは、ほんの一月か二月前だ。それでもこれだけ名が広まっている、と言うのは少女にとって少し恥ずかしかった。
対局申し込みをザッと見ていると、彼女の目に一人の名前が留まった。
「と……や……」
相手の名は、 Toya Koyo 。
塔矢行洋。元名人であった男で、現在は色んなチームに所属したり、アマチュアの大会に出ていると聞く。
「あの者が……ここに……」
彩花は感激していた。まさか、こんなに早く。こんなに早く、彼と打てるとは。
ネット碁でもいい。直接じゃなくてもいい。彼女はToya Koyoの申し込みを受けた。
すぐに画面が碁盤へと変わる。彼女は白についた。
持ち時間は一時間。少々少ないが、偽者とでも疑われているのか。それとも忙しいのか。
それでもいい、とは思っていた。彼女にとっては、塔矢行洋と打てることにこそ価値がある。
「お願いします」
開始して、パソコンに向かって彼女は頭を下げた。直接対局するかのように。
彼女は二手目を5分かけた。それから相手を誘導して思うように打たせたいところだが……
「(さすが、塔矢行洋……。こちらの思う通りにはいかない……。むしろ警戒されたか)」
彼女は楽しくて笑っていた。これが、これこそ楽しみにしていた一局の一つ。
直接打てない所が寂しいが、それでも囲碁は囲碁。久しぶりに強い者と対局できて、彼女は満足していた。