その他短編

□格子戸の向こうへ
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格子戸は、それ単体で見れば、先まで良く見渡せるものだ。ただ、私の心には、遮蔽物がある。それは障子の様に脆く、朧気である。
光があれば、障子越しに何かが見えるのに、光が無いと、何も確認できないのだ。
この障子の先には、誰かが居る。その人物は複数だ。良く見知った、旧制学校の同級、先輩達、そして、同級の妹、先輩の部下達、そして、仕事で関わる間柄の人間、知人。
皆、この障子の先に居る。この格子戸を開ければ良いのに、それが出来ない。私は、彼等とは何処か違う。
彼等は、自らの足で動き、それぞれに固い信念を抱いている。私はどうであろう。この格子戸も簡単には開けることの出来ない臆病者ではないだろうか。本当は、この格子戸を開けて、皆の輪に入りたい。ただ、それが上手く出来ずに、この格子戸の前に立ち尽くしたままの状態なのである。


『僕は、彼等とはきっと違うんだ。彼等よりも彼岸に近い人間なのだ』


頭の中で、もう一人の私がそう囁いた。嗚呼、私は彼岸寄りの人間だ。だから、彼等とは交わる事は出来ない。ただ、遠くから聞こえる声を、ラジオの様に聞き流し、そして自分の殻に閉じ籠る。


『……口、関口君』


聴き慣れた朧気な声が私を呼ぶ。その声は、次第に大きくなっていった。


「関口」


そこで、私ははっとした。机を挟んで、目の前に居る男が、まるで自分の住んで居た場所を失ったかのような顰めっ面でこちらを呆れたように見ていた。


私ははっとして、黒衣に身を包んだ同級を見つめた。周りには、大して用も無いのに、先輩やらその部下やら、同級の妹等がみっしりと決して広くは無いこの間に居た。


「関口君、一体何をぼうっとしているんだね?用も無いのに来た癖に……。全く、君はこの家の主人が干菓子を勧めているのにも気が付かないなんて、失礼だろう?」

「兄さん。兄さんの方が失礼だと思うわ。……関口先生、兄の言った事は気にしないで下さいね」

「関君はきっと何処かの世界へ飛んで行ってたんだろう?それが未知の世界か何処かは分からないけど……。おお、にゃんこだ!こっちおいで。あ、何で逃げるんだ!?」

「礼二郎、手前ぇがでけえ声出すからだろうが。……ったく、五月蠅くって敵わねえぜ」

「あっ、そう言えば先生。次回の話についての原稿の件なんですがね。ちょっとまた休刊になってしまって……」

「そりゃあ大変ですねえ。死活問題じゃあないですか。まあ、榎木津さんの助手をしている僕の方がよっぽど大変ですがねえ」

「益田君、あんまり色々言うと榎木津さんから神の鉄槌が下るんじゃないかい?」

「マスカマ!お前今何か言っただロウ!?」

「いや、僕ぁ何も言ってませんよ。ちょ、掴み掛かるのは止めて下さいよお!」

「……ほら、言わんこっちゃない。僕は知らないよ」

「青木さん、無視しないで助けて下さいよう!」

「人の家で勝手に暴れるのは止めてくれ。埃が散るし、迷惑だ。やるなら他所(よそ)でやってくれ」


騒がしい。此処は、とても騒がしい。ただ、何故こうもここから逃げ出したいと思わないのだろう。私は、ずっと、この家の主人の向かい側に座って居た。どたばたと五月蠅い音がしていて、非常に騒がしい。騒がしかったせいか、家主の妻君が居間にやって来てくすくす笑っている。


「盛り上がっているところ申し訳ないですが、お客様がいらっしゃいましたよ」

「またか……。帰って貰ってくれ」

「あら、もう上がって貰いましたわ」


笑う妻君と仏頂面の同級のやり取りは、実にコミカルなものであった。その内、とたとたとこちらの部屋に近付いて来る音が複数。


「あ、皆来てたんだ……」

「お邪魔しているのです」

「な、何だか京極堂が物凄い事になってますね……」


今度は知人か。魚籠を持った枯れ木の様な男に、禽獣の様な今一閉まらない口の男、そして、榎木津の依頼人であったが、ひょんなことから巻き込まれる様になってしまった電気工の青年。


「……何でこう言う時に君等は来るんだ」

「魚釣れたから、届けに来たの」

「僕は伊佐間君にたまたま会ったので、同行して来たのです」

「ぼ、僕は、お二人に会って、何故だか此処まで来る羽目に……」

「家は、宴会場じゃあ無いんだぞ」


嗚呼、やはり騒がしい。だが、此処から逃げ出せない。障子戸の外にまだ居る筈なのに、ずっと閉まり切った障子の前に立ち続けている。
すっと、机の上の干菓子の載った盆がこちらに寄った。それは、この家の主人がこちらに差し出したからだ。


「関口君、君はまだぼうっとしている様だね。こんな騒がしい中何でそんなに静かに居られるんだ。また自分の殻に籠っていたのか?」

「いや、えっと……。うう……」

「相変わらずはっきりとしないな、君は。全く、僕だって君の様に自分の殻に籠りたいものだよ、今は」

「そ、そうなのかい?」

「そうだとも。それで、君は主人に勧められた干菓子を食わないのかね?」


嗚呼、そうであった。騒がしくなる前から勧められていたのだった。私は、盆の上に載っている干菓子を一粒手に取り、口へと運んだ。素朴だが、上品な甘味が口一杯に広がる。
そして、ふと、周りを見渡せば、皆思い思いに過ごし、騒ぎ、窘め、傍観し、焦り……。
私の周りには、一癖も二癖も有る個性的な人物達が揃っている。五月蠅いが、居心地が悪い訳では無い。彼岸寄りの人間だと思っていたが、生憎私はまだ生きている。
障子戸の向こう側へ、今なら少し足を踏み入れられるかもしれない。私は、根拠の無い自信を持って、恐る恐るその障子戸にそっと手を掛けることにした。


END

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