その他短編

□偉人の和訳より
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しんと静まり返った帰路を歩く。灯りなんてほぼ無いこの道は、いつも月が照らしてくれる。空をふと見上げると、今日は三日月かと思った。いつもは少し温かみを感じる月光も、今日は仄白くて冷たさを感じる。はあ、と僕は盛大な溜め息を吐いた。しんと静まり返った帰路に不釣り合いな大音声の溜め息は自棄に目立つ。誰も聞いていないのが幸いだと思うくらいだ。


僕は今日ついてなかった。出勤途中に黒猫を見掛けた。それだけなら良かったのだ。その後、近頃傷害事件で巷を賑わせていた犯人を取り押さえようと路地を走り追っている際、またもや黒猫が僕の目の前に現れたのだ。それを避けようと僕は猫に気を取られた。その隙を付いて、犯人がこちらに向かって突っ込んできた。咄嗟に反応出来ず、その犯人に体当たりされた揚句、逃げられてしまったのだ。
みすみすとその犯人を逃がした僕はその失態を署で先輩に怒鳴られる羽目になった。鬼の木場修とだけ呼ばれるだけあって、顔を真っ赤にして怒る様は正しく赤鬼のように見えた。
そして、始末書を書き、今に至る。
あの黒猫が不吉を呼び寄せたに違いない。昔から黒猫や烏を見ると不吉なことが起こると耳にしたことがある。
ただ、これは言い訳に過ぎないのだ。それもこれも、自分があの時対処出来ていなかったから。もっと上手く立ち回っていれば。体当たりされて倒れても足を掴んでやればよかったのだ。悔しさと憤りと情けなさが胸中を旋回する。
いっそ、麦酒でも飲みに行って憂さを晴らそうかとも思ったが、今は居酒屋等の騒がしい店に行く気分では到底無かった。

そんな時だった。聞き覚えのある声が耳に入って来た。


「あれぇ?青木さんじゃないですか」


僕が顔を上げると、反対側の道からこちらに向かって歩いて来る青年を認めた。ハンチング帽を被らず、私服でこちらへ近付いて来るのは、知り合いの鳥口守彦だ。彼は、こちらに手をひらひらと振りながら近付いてきた。


「鳥口さん、今日はお休みですか?」

「はい!只今カストリ誌がお休みです!」


おどけたように敬礼をしながら言う彼に、僕はそうですかとしか返す事ができなかった。きっと、今の僕は笑えていないのだろう。


「月が綺麗ですねぇ」


唐突なその言葉に、思わず僕は目を丸くした。僕は再び空に視線を送る。星が幾つか瞬き、その中にぽっかりと細い三日月が浮かんでいる。否、今の僕には冷たい光を放つ物体にしか見えなかった。そうですかと素っ気無く返すと、彼は月を見たまま、首を横にした。


「こうやって見る角度を変えると、月が笑っているように見えますよ。あ、あくまで笑った時の口ですけどね」


僕も釣られる様に鳥口さんと同じ行動を取る。慥かに、月は人が笑った時の口元に見えるような気もしなくない。


「こうやって見る月は笑っているようで綺麗だって、かの太宰先生だったか、芥川先生が仰ったそうですよ?」


そう言いながら、こちらを得意気な笑みで見る彼に、僕は一瞬沈黙した後、やがて耐え切れずに思わず吹き出してしまった。


「え、青木さん。何が可笑しいんです?」


きょとりとした顔をする彼が益々可笑しくて、僕は遂に大笑いをしてしまった。笑い過ぎて少し脇腹が痛い。やがて、その笑いも落ち着いて来ると、僕は鳥口さんを見て言った。


「鳥口さん、月が綺麗ですねは夏目漱石の逸話ですよ。しかも、それはアイラブユウ、を訳した言葉らしいですよ?つまりは愛してるって意味です」

「うっへえ!?そうなんですか?僕はてっきり太宰先生か芥川先生が言った言葉だと。それに、月が笑ってるようで綺麗なんじゃないですか?」

「それじゃあ、三日月限定ですよ。満月か、半月か、三日月か、どれを見て言ったのか分かりませんが、鳥口さんが言ってるのは限定的過ぎますよ」

「うへえ……、そうなんですかあ。青木さんは物知りですねえ……」


頭を掻きながら苦笑する鳥口さんに、僕は笑って返した。何だか、ここまで笑ったのは久々だと思う。最近仕事に追われ、今日のついていない日に落ち込みで心身共に疲れていたようだ。でも、今はそんな自分が馬鹿馬鹿しくなった。


「鳥口さん、よろしければ今から一杯如何ですか?」

「おっ、呑みに行きますか!?青木さんの奢りと言う事でいいんですかな?」


くいっと猪口を傾けるような仕草をする彼に、僕は笑顔で答える。


「いいえ、勿論折半ですよ」

「うへえ、そんなあ……」

「誰が奢るって言いました?さ、行きましょう」


そう言って、僕は彼の横を通り過ぎ、彼の先を歩き始めた。鳥口さんは元来た道を戻る羽目になってしまった。しかし、こちらの方向にしか居酒屋が無い為、彼は僕の後を付いて来て、やがては僕の隣に並んだ。


「落ち込んでいたようだった貴方が笑ってくれたらそれでいいって、そう思いましたから」

「うん?」

「いえ、何でもありませんよ。ほら、居酒屋見えて来ましたよ!」


そう言って、出会った時と同じくおどけたように言う鳥口さん。もしかすると、彼はわざと言葉の意味を間違えたのかもしれない。きっと、僕が矢鱈落ち込んでいたから彼なりに気を遣ってくれたのかもしれない。いつも、何処か間違えた言葉を遣う彼だったから、気が付かなかった。この考えももしかすると的外れかもしれないが、それでも。

僕は、空を見上げ再び三日月を見た。あれだけ落ち込んでいた時には冷たく見えたのに、今ではいつも通り少し温かみのある光を放っている。その弧を描くかのような形が、笑っている口元に見えて、僕はそっと笑った。


こうして、僕はいつも通りの僕へと移り変わって行った。


END

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