忍若

□こどもの扱い方
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若は忍足からうけとったカードキーをぼんやり眺めていた。

(フリーパス)

 ようするに合鍵を渡されたということだ。
 好みとちゃうかった、と対象を別に向けられる予定だったのに、考えていた方向とは逆に進んでいる。

(これを欲しがる人はもっと他にいるのに)

 悪趣味だな、と胸ポケットにしまった。
 

放課後、部活を終え、帰宅の途につくと、最寄り駅に目のつく男が立っていた。

「返します」

 若はカードキーを差し出した。
 忍足はなぁ、と耳元に口を寄せると低い声で囁いた。

「セフレって言葉知っとる、」

 かっとなった瞬間、若は忍足の右頬を叩いていた。
 カツンと音を立てて落ちた丸い眼鏡をゆっくりとした動作で拾い上げる忍足を見ることが出来なかった。

「武術なろとるんやろ、素人には歯ぁ食いしばる余裕くらいくれな、」

 忍足は血の滲む唾を吐きだすと長い髪をかきあげた。
 緩慢なその動きに苛立った若はカードキーを投げ返し、構内へ駆け上がった。

(セフレって言葉知っとる)

 忍足の言葉が耳をついて離れない。
 てっきり気に入られているものと思っていた。
 あんなまねまでして、赤っ恥もいいところだ。
 ちょうどホームに滑り混んできた列車に飛び込んだ。
 混雑した車内で窓から流れる景色をめいいっぱい奥歯を噛み締めながらにらみ続けた。

 あれ以来忍足とは言葉を交わすことも無ければ、目が合うことすらない。
 望みは叶った。
 若は一人壁に向かってボールを打ち続けた。
 跳ね返るボールをひたすらボレーでうち返す。
 もうあの人から教わる事はないのだからしかたない。
 汗ににじんだラケットは手元を抜け、地面を派手に跳ねていった。
 額から流れる玉のような汗を肩でぬぐって、ラケットをひらう。

「畜生っ…」

 はずみで壁を殴ったラケットは根本から折れ、若はカードキーを投げ付けたことを後悔していた。

(あれがあれば、もう一度、)

 やり直す?
 どこから?
 そもそも勝手に思い違いをしたのはこっちだ。
 ばつが悪いのも、惨めなのも、みんな自分の方だ。
 本当は仕掛けたのすら、自分の方だったなんて。
 気に入られてるのか、確かな保証がほしかったのだ。


「ものは大事にせな、テニスやっとるんやったら、ラケットこんなしてもたらあかん」

 若は飛び上がって顔を上げた。

「笑いにきたんですか」

 無惨に散らばった残骸を拾う忍足の背中を見ていた。

「一人が好きな子で助かるわ」

 忍足はほら、とひろったもはや木屑同然のラケットの先を若に渡した。

「しょうもない小細工仕掛けてくな」

 話は岳人から聞いた、と若の頭を撫でた。

「好かれたくない奴にはな、嫌いや、はっきり言うたらええねん」

 自分の口やったらそんくらいゆえるはずやろ、と額を合わせる忍足の声は優しい。
 髪をとく指先も心地いい。
 頬に掠る黒髪がくすぐったくて顔を背けようとすれば、忍足の大きな両手の平がそれを阻む。

「嫌やったら突き飛ばし、」

 甘く満たされる気がした。
 間合いをあけながらそっとなんども触れられるキスを若はゆっくり、胸を押して拒んだ。

「そんなふうにするな」
「そんなふうに、」

 悪い事をして叱られ、いじけた子供を慰める母親のような。

「セフレなんかなりませんよ、」

 そんな安くない、と押した胸元のシャツをくしゃりと握った。

「そやろな、」

 で、フリーパスどうする、と忍足は口元を緩ませる。

 若のこたえはひとつしかなかった。

「嫌いなわけじゃない」
「それで上等や」

 溢れ出る大粒の涙が忍足のシャツの片口を濡らして行った。
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