忍若

□錆びた精神U
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どうして自殺してはいけないんですか

必ずしも自然死でならなければいけない理由がわからないんですけど、若の口から淡々と語られる死への欲求に対する答として、侑士は最低でも五人の人間に迷惑をかけるから、と応えた。
若は恐らく精神科医としてカウンセリングできる立場にある人間となった侑士のだす答として、納得いかなかったのだろう
黙って目尻を吊り上げ、侑士を見ていた
その目には、生きていたって迷惑をかけずに生きている人間なんていないじゃないか、と言わんばかりだ

「精神科に受診しにくる患者は死にたいていうて来るやつばっかりやけど、死なへん」
「口だけだと、」
「ちゃう」

どんだけ用意周到に準備していても、いつでも出来る状態やってことに安堵して、ホンマは死にたくないからや、と続けた。

「違いますよ、自分が生まれてきた理由に納得できて、使命を全うできたとおもえたんなら、この世にいき続ける意味なんてないじゃないですか」

若は今、拗ねているのだ
自分の命の尊さを諭され、自殺したいなんて言うなと止めて貰えることを期待し、甘えていたのを、冷たく突き放されたようで。

「そんだけの強い意志と覚悟、思想を持った人間はうつ病で病んだ心で後ろ向きになっとるんやない、どんな薬使うたって、決意までは変えられへん、」

そんなやつに治療は不用や、と言ったところでチャイムがなった。

若は口を真一文字にむすんだまま、不満げにリビングを離れていった
玄関のドアを開ける音の後に聞こえた声に、侑士は席をたった。



客人を招き入れ、リビングに戻ると、そこにはもう侑士の姿は無かった。
自室に戻ったらしい。
若は先程の問答について、侑士の答えは、医師としての発言として適当だと思うか、と客人の反応を伺った

「へぇ、忍足がねぇ」

明るいブラウンの長い前髪を耳にかけると、若の差し出したコーヒーに手をのばす。

「約五人て誰だと思う、」
試すように視線をよこす顔つきは昔となんらかわりなく、懐かしさを覚えた

「身内、遺体の処理をする人、それから…」

忍足さん、と締めくくって視線をはずした

「それだけじゃない、お前の主治医、看護師、ご近所の皆さんに、僕たち氷帝テニス部の仲間、後輩、同級生、」

若はつらつらと並ぶ若に関わる人物たちを浮かべた

「全員の人生に暗い影を落とすことになる、」

君が納得して死んだからって、残された人間の心にいつまでも刺となって刺さったまま、抜き去ることもできず、ちくりちくりといちいち傷みは続くんだ、助けてあげられなかったってね、と若の反応を楽しむように攻めてくる。

「それに、例えばあすこのマンションの上の階の若い男、死んだらしいよ、って聴いたご近所の独り暮らしのご老体が、若いもんに出来て、自分に出来ないなんて、って真似をしたら、」

どうする、という質問を遮るように侑士が奥の部屋から出て来た

「もうええやろ、滝」

その顔は険しく、それ以上の滝の意地悪を許すことは無かった

若は俯いた

自分はただ逃げ道を確保して、忍足の総てをもって、絶対的安全圏を守ってもらうことしか考えていなかった

「気にせんでええ」

くしゃりと撫でられる頭をさらに落とした

「泣かしちゃった、」

舌を出しておどける滝は、ほら、美味しいシュークリーム持って来たんだ、と土産袋を開けた

膝のうえできつく握った拳で、一滴、涙がはじけとんだ

「同じ迷惑かけても、死んじゃったら、かけっぱなし、恩返しもできやしない、ご立派な建前つけて死んだって身勝手なこと極まりないじゃないって、そういうことだろ、」

滝は悪かったよ、と忍足に目配せしながら、シュー皮をちぎり、カスタードクリームをすくうと、ほら、口をあけて、と笑った

「俺が浅はかでした」

若は藻掻いていた
岸の見えない暗い水の中で、唯一しがみついている忍足と共に
どんなに小さな灯火で構わない
ふたりでたどり着ける目印を探して

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