忍若

□錆びた精神
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 わかしはふと右手にもったペティナイフに目がとまった。
 このままこのナイフを心臓のど真ん中に突き立ててやったら死ねるだろうか。


 わかしは氷帝学園テニス部部長を引き継いだ
しかしその年も、氷帝は優勝旗を掲げることが出来なかった。
 自分が弱かったせいだ。
 あの時と同じように。
 結局、自分は何も変わっていなかった。
 血の滲むような特訓はなんの成果も生み出さなかった。
 最初から自分にはなかったのだ。
 勝利を収めることのできる器が。
 少しばかり周りより素質はあっても、それは気の毒としかいえないほどの思い違いを生み出しただけで、上には上がいることを思い知らされる毎に、わかしの中の自信をうち砕いていった。
 かけていったかけらは、武術で鍛えた精神をも傷つけ、わかしはとうとうラケットを置いた。

 そうしてもう三年が過ぎようとしていた。


 ナイフを握っていた右手を掴まれ、取り上げられた。
 テーブルを挟んだ目の前にすわっていたはずの侑士が隣に立っていた。

「こんなんでしねへんで」

 呆れたような冷めた瞳だった。
 侑士は取り上げたナイフでわかしの持っていた林檎を食べやすいサイズに切ってやると、手際よく丸皿に並べ、目線をさして興味もないワールドカップの試合を流す液晶画面に戻した。
 侑士はテレビを見ながらよく喋る。
 今のは一回後ろに戻すべきやっただとか、解説者きどりの独り言を聞かせられながら、わかしは唐突に口を開いた。

「歌にだってあるでしょう。俺が死んだって、親や兄弟や…アンタが哀しむだけで、それもせいぜい二週間くらいの間のことで、あとは何もなかったようにいつも通りの日常が始まる。今、俺がここでどうにかして死んだって、それは俺の自由じゃないですか」

 スピーカーから響く音だけが部屋の中に響く唯一の音となり、侑士はわかしを睨んだ。

「…お前は忘れれるんか、たった、二週間で」

 それきり侑士は席を立ち、ベランダに出てしまった。
 タバコを吸う後ろ姿が情けない程に滅入っていた。
 全ては自分のせいだ。
 わかしはそう思うと唇を噛み締めた。
 侑士は外科医になるはずだった専攻を、精神科医に転向している。
 父親に殴り飛ばされ、放り出されるままにここへやって来た。

「…おかしなことを言ってすいません。本気じゃない」

 侑士はタバコを手摺りに擦り、見たこともないような暗い瞳でわかしを振り返った。

「人の人生ここまで狂わしといて、自分だけ楽になろうとかセコいこと考えなや。そんなことしたら一生恨むで」

 おいで、と広げる仕草に素直に従った。
 そこは唯一、わかしの心に静けさと安息をもたらすことができる場所だった。

 貴方がいてくれるのに、なぜこうも自分はみっともない醜態を晒し続けているのか。

 どうかこの場所がいつまでも、自分だけのものであって。

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