忍若
□ドライビングスクール
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推薦で大学も早々に決まり、自由登校になったのを持て余していた若は、時間を有効に使おうと自動車教習所へ通うことにした。
何度か目に自動車学院へ来たとき、教室へ向かう階段で若い男性教官とすれ違い、 随分若いなと思って見ていると、女子教習生が数人駆け寄って来て、とたんにほわほわと和やかな雰囲気を漂わせていた。
若はそれを何とはなしに面白くない気分で見ていた。
それからも何度となくその若い教官の姿を見かけたけれど、若に当たる教官はいつも年配のやる気があるのかないのかよくわからないオジサン達か、細やかでわかりやすい指導で定評のある女性教官だった。
別段不服に思っていたわけではない。
けれど、まれにゆるい癖のある黒髪をくしゃりと適当にまとめていたりするあの若い教官のことは、どういう訳だか妙に意識していた。
その日、若は利用しているスクールバスが夕刻の渋滞にひっかかりなかなか進まず、教習時間が減ってしまうと内心イライラして乗っていた。
十分ほど遅れて学院に着き、バスから飛び降りると真っ直ぐ配車券を引き出す。
出て来る券にはその時間に若を担当する教官の名前と車の番号が記載されている。
(忍足侑士…初めて当たる先生だな)
若は遅刻を咎められたりするだろうかと、待合室に残る教官の顔を見た。
(あっ)
立っていたのはあの若い教官だった。
「日吉くんやね、ほな行こか」
忍足は若と目を合わせることもなく教習手帳を受け取ると、車の方へと歩きだした。
若はその後ろ姿をほんの少し呆けて見送り、慌てて後についた。
数歩先でみた背中は、予想外に広く、若いと思っていてもやはり年上の男の背中だった。
「準備出来たらエンジンかけて。まず内周。6番のとこ入って1番の方向転換行こか」
相変わらず忍足は若を見ない。
恐らくわかしの成績やらが書き込まれているのだろう資料に目を注いでいる。
すでに第二段階に進んだ教習生に出発前準備など慣れていて当然とばかりに、忍足は若の諸動作にいちいち目を配らなかった。
若はいつもどおりシートとミラーを合わせ、ギアをドライブに入れサイドブレーキを降ろした。
「合図」
発進するときには発進合図として指示器を出さなければならない。
単純なミスにぎょっとした。
緊張しているのだと嫌がおうにも気づかされてしまった。
(意識しすぎだ。たかが1時間にも満たない教習で)
若は動揺を悟られないよう努めて冷静を装いながら、アクセルを緩く踏んだ。
場内のコースはこれまでですでに14時間分も走っており、見慣れていて当然の景色のはずだった。
それどころか若は場内のコースにすっかり飽きていて、路上に出て運転できるようになったことを楽しんでいたくらいだった。
なのに今はまるで今日初めて車を動かしたようなおかしな感覚を覚えている。
(落ち着け、何をそんなに意識することがある)
指定された通り、1番の方向転換のための停止位置に入った。
一旦車を止め、思考がふわふわ空回りする中、前日の指導内容を思い起こした。
(沿石ふたつめまでバック)
若はギアをRの位置まで下げ、勢いよく身を乗り出し後ろを確認しようとした。
とたんに視界は衝撃でぶれ、若の額にはじんと鈍い熱が集まった。
若には何が起こったかわからなかった。
「窓、開けや?」
助手席でクスリと笑いが漏れたのを聞いて初めて、窓ガラスに頭を打ち付けたのだと気がついた。
若の耳にはもう忍足の今のちょっと面白かったなんて発言は届かない。
慌てて開けた窓から冬の冷たい風が勢いよく入ってくる。
それでも若は暑かった。
今にも体内の全てがドロドロと穴という穴から流れ出て来るのではないかと思うほど、若の身はかっかと燃えるような熱を感じていた。
脳内ではグルグルと必死の言い訳が渦巻いている。
(昨日は一度も失敗せずに出来たんだ)
こんなはずではなかったと思いながら、若は知らぬ間になんの問題もなく教習を終了し、忍足によく出来ていた、何も注意すべき箇所は見当たらなかったと褒められる自分を想像していたことに堪らない気持ちになった。
想像の中の自分はなんとも得意げで、いつも憎たらしいと言われる含み笑いを見せて喜々としていた。
(恥ずかしい…!)
若はもう忍足の様子を察することすらしたくなかった。