駄文

□哲学者に学ぶこと
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人間は、考える葦である。
葦とは、世界において最弱の存在。そんな弱い存在に、考える力をプラスしたものが、人間である。思考することが、他の動物と違うところであり、人間の特徴である。

……それがどうしたの? そんなこと、当たり前じゃない。
そう思っていました。
けれど...
実はこの後が大事なのです。
その一部を、引用したいと思います。

人間は自然のうちで最も弱いひとくきの葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。これを押しつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれを押しつぶすときにも、人間は、人間を殺すものよりもいっそう高貴であるだろう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。宇宙はそれについては何も知らない。
 それゆえ、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存在する。われわれが立ち上がらなくてはならないのはそのためであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。それゆえ、われわれはよく考えるように努めよう。そこに道徳の根源がある。
(パスカル(Pascall 1623_1662)『パンセ200断章(Pansees200)』より)

解釈はいろいろあると思いますが...
この授業で先生が述べられた解釈は、こうです。
「人間は考える葦である」とは、つまり人間は全ての存在の中で一番弱いということ。それは絶望的なことである。しかし、その弱さを自覚した瞬間に、自分より強い存在よりもずっと高貴な存在になる。ここに、パスカルの思う生きる価値が存在する。
つまり、人間とは、最も弱く絶望的な存在であるが、それを自覚し克服することに価値(尊厳)がある。
……感銘を受けました。
自覚しているだけではないのです。自分が一番弱い存在なんだ、ってメソメソするのではなく、弱いと知った上で、どうするかに意味があるというのです。
その話の中で、先生は事例を挙げられました。
障害を負った人が、人に介護され、お金もなく職もなく、人生に絶望し死ぬことを考えていても、それを克服し打破することに、生きる価値がある。
要するに、絶望を感じていながら、生き続けることに意味がある、と。
先生はこうも表現されました。
たとえば、20歳になったということは、20年生きたということ。
20年生きたということは、20年消費した、つまり20年死んだということ。
だから、精一杯生きたということは、精一杯死んだということ。

この人生を、生ききるのではなく、死にきるということ。

とても考えさえられました。
表現を、見方を変えるだけで、伝わってくるものが全く違う。
生ききるということには、絶望的な感情が抜け落ち、ポジティブなイメージが強く感じられ。
死にきるということには、絶望的な、ネガティブな感情がつきまとっているのにもかかわらず、一生懸命さが見える。
人は、ひとりで生まれ、ひとりで死ぬ。
それは、誰に対しても公平な孤独……絶望……。
けれど、私たちには、考える力がある。
考え、絶望を感じながらも、生きる力がある。
それを行うことが生きる価値であり、道徳というものの根源となるのである。

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