□哀しみが涙に成る前に
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「殿、」

体中がギシギシと痛む。
それでも息を切らして左近は本陣へと体を引き摺り、たどり着いた。
そこに主はいた。

大一大万大吉。

三成の背中に堂々と描かれた言葉を左近は今一度、しっかりと見据えた。
血を失いすぎたか…視点が上手く定まらない。
左近は愛刀で体を支えながら三成を呼んだ。

「殿」

しかし、三成は返事もしない上に振り返ろうともしなかった。
そこまで自分の声はもう掠れてしまっているのだろうか。
それとも、声さえも出ていないのか。

それでも左近は三成を呼び続けた。
意識が朦朧とし始めた時に、やっと三成は小さく「なんだ」とだけ振り返らずに答えた。
左近は安堵しながら、渇いていく口で必死に言葉を紡ぐ。

「殿、落ちてください」

関ヶ原の戦い。
この戦にもう西軍は勝てない。
ならば、せめて、せめて。

「…同志を残して、俺だけ逃げろと…言うのか、左近」

三成の声は震えていた。
それでも左近は続ける。

「殿、今は逃げて、次の再起を」

そう言うと、やっと三成は振り返った。
きっと何か左近に文句を言おうとしたのだろう。
しかし、余りにも無残な姿になった左近を見て三成の顔はみるみる内に青ざめた。

「殿、お願いですから、今は落ちてください」

ぐらり。
とうとう視界が崩れていくのを感じた。
耳には近くまで近付いてきている、敵の叫び声。
もうあまり時間がない。

「さ、こん」

今にも泣き出しそうな表情で弱々しく左近の名前を呼ぶ三成。
三成に家臣として長く近くで仕えてきたが、なんて顔をしているのだろうか。

左近は思わず笑みを浮かべた。
やはり、貴方は生きるべきだと。
今でも鮮明に思い出せる。
毎日遊女に溺れていた左近に三成は同志にならないか、と。

「早く、逃げてください」

「嫌、だ…」

「…殿」

「っ左近、お前はどうするのだ!」

三成はなかなか表情を出さない。
しかし今は感情をむき出してあんなに涼しそうで整った顔を歪ませている。
目には涙を滲ませて。

左近は嬉しかった。
こんな自分の為に泣いてくれる三成が、自分を認めてくれた三成が。
しかし、もうお終いなのだ。
なにもかも。

「俺はここに残って戦います」

「ならば、俺も…っ!」

「殿!!」

お願いします、と左近は三成に頭を下げた。
左近は血の味を噛み締めながら、今自分の主は酷く辛い顔をしたに違いないと思った。
でもこれが左近の最後の我儘であり、皆の願いだった。

沢山の同志が死んだ。

三成はそんな無力な自分を悔やみ、呪っている。
それなのに同志と同じ地面に眠る事が出来ないなど三成には辛すぎる。
左近はそれでも頭を上げなかった。

暫くして、三成がゆっくりと左近の傍へと歩んできた。

「左近、」

「はい」

「今までありがとう、今日まで殿として俺に仕えてくれた事、感謝する…」

三成の絞り出すような声に、泣いているのだと分かった。
左近はいつものように笑いながら軽い冗談でも言いたかったが、出来そうにない。
左近も同じく、声を殺して泣いていた。

皆で笑って暮らしていた日々を思い出しながら、再び笑える事を願いながら。

「左近、必ず、必ず戻ってこい。お前の主は俺だ。俺だけだ」

「分かってますよ、殿…必ず、生まれ変わっても、また逢いましょう」

「「会えて良かった」」

左近は三成が走っていく足音を背後に聞きながら、最後の力を振り絞り立ち上がる。
前方には敵が迫ってきていた。

また三成に、同志に会える事を信じて左近は叫び、刀を振り上げた。




哀しみが涙に
成る前に


(またこの空の下で
会いしょう)









 
 

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