夜空の図書館
□それだけのことで救われる
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夜の帳が下りてから、幾刻の時が過ぎたのだろうか。宿屋で休息をとっていた仲間達が寝静まってから外へと繰り出しので、もう日付は変わっているのかもしれない。生憎と時計などというそこそこ値段の張る品なんぞ下町育ちの自分は持ち合わせていない。日が昇れば行動し、沈めば寝る。
時折街に鎮座しているそれを見て時刻を確認すればいい。時間に縛られるなど御免だ。
(静かだな…)
茹だるような暑さと、それに負けないくらい賑やかな住民の声が包む昼間。それとは打って変わり、薄着だと肌寒さを感じる冷涼な空気に、草の揺れる音とたまに聞こえる動物の鳴き声以外は何も聴こえない、閑散とした街。砂漠の夜は冷えるということは。初めてここへ訪れた時に経験済みだ。
さぁ…、と風が青年の黒髪を凪ぐ。癖のない長髪が、さらさらと身を任せて流されている。
「……………」
青年が佇んでいるのは、この街の名所であり住人達が生活する上で欠かせない所でもあるオアシスではない。寧ろ、決して近づいてはいけないと子供たちが言い聞かされているであろう、砂が延々と、そして静かに動き続ける場所。一歩踏み外せば、柔らかく細かい砂がゆっくりと、だが容赦なく四肢の自由を奪い、地の底へと飲み込まれてしまうのだろう。
青年は、此処に立ちつくし何を思っているのだろうか。夜空を切り取ったような漆黒の瞳は、どこか危うい揺らぎを示している。
「………、……」
開いた口は、音を出すこともなく、ただそれだけに終わる。
別に何か言いたいことがあった訳でもない。ただ、喉にねっとりと張り付く何かを感じて、息苦しくなっただけ。
ゆらり、ゆらり。
脳裏にそこまで遠くない過去の記憶が浮かび上がる。
暗闇であったにもかかわらず鮮明に。録音機のようにはっきりと。
まるで昨日のことであるかのように、生々しく―――――
「―――ユーリ……?」
不意に聞こえてきた鈴の音に似た声に、はっと我に返る。
どうやらいつの間にか思考の海に半分以上浸かっていたらしい。
殺意や敵意がなかったとはいえ、馴染みのある者だったとはいえ、外にいて人の気配に気付かないとは、と内心反省する。
振り返れば、緑色の瞳を眠たげに擦りながらこちらを見つめる少女。
月明かりに照らされた桃色の髪が、薄暗い中でもはっきりと見て取れた。
ふわりと、微かに花のような甘い香りがした気がした。
「どうした、エステル?」
極力普段通り穏やかに声を掛けた。一度寝たら朝まで熟睡する彼女が起きるなんて珍しい。彼女は上品な見かけによらずどんな所でも眠れ、ちょっとやそっとのことでは起きない中々に図太い神経の持ち主なのだ。
「起きたら、ユーリがいなくて……」
ユーリは目を瞬かせた。次いでむず痒い感覚が襲ってきて、それを隠すように苦笑いする。
「悪い、起こしちまったな」
いつものように形の良い頭を撫でようと手を伸ばして、先程の記憶が再び舞い戻ってきて、反射的に手を止める。
伸ばした手を凝視する。そこにはある筈のないものが、感覚を刺激する。
赤いものがちらつく。
鉄臭い匂いが鼻を掠める。
二つの断末魔が、耳朶に――――
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