短編
□逃げるにはまだ早い
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「駆け落ちでもしようか」
不適な笑みを向ける男に、俺は呆れた視線をやった。ついでに溜め息もくれてやる。
「アホか」
「どうして?」
「面白くない冗談だ。大佐、これの続きくれよ」
持っていた本を返して、続きの巻を要求する。ところが男は、受け取ったものの俺の欲する本を渡す気はないようだ。
にっこりと笑い続ける大佐に俺は胡乱げな目を向ける。
「冗談でもないさ。君は思ったことがないのか?私と二人で逃げたい、と」
楽しそうな大佐に、俺ははっきり、ない、と……言えなかった。
黙った俺に、さらに大佐は続ける。
「地位も名誉も立場も捨てて、好きな人と二人だけで見知らぬ地へ。魅力的だと思わないかね?」
「……アホらし」
握っていたペンを放り投げて立ち上がり、大佐は窓際に寄った。
「君も、もがいて戦い続ける日々や先の見えない不安定な旅をやめられるんだ」
「ありえないね」
窓の縁に紙を置いて、触れる。恐らく錬成陣でも描いてあったんだろう。錬成光が僅かに見えた。
「私は憧れるよ、君がいつでも隣にいることに。さあ、鋼の。私と駆け落ちしよう」
窓枠に足をかけ、半分身を乗り出しながら、俺に手を差し出す。俺にその手をとれと言うのか。
「二人で、今の状況を投げ出して、誰も知らないところで過ごすんだ。君のことは、私が守るよ」
自信満々の表情を見ていると、本当に可能な気がしてくるから困る。
俺は溜め息を一つ落として、手を取った。
「……しょうがねえな」
「素直じゃないな」
「うっさい。ほら、早く行くぞ。中尉に見つかったら駆け落ちどころじゃなくなるんだろ」
「その通りだな」
くすりと笑った大佐と手を繋いだまま、さっき錬成した足場を渡りながら、司令部から抜け出す。
そのまま街に出た。露店の軽食を食べたり、目に付いた店を冷やかしたり、ぼんやりとベンチに座ってみたり。
その間ずっと手は離さなかった。
俺と大佐は二人だった。少なくとも、俺たちはそう思っていた。
大佐の家はそう遠くないのに、安いホテルに泊まって、二人で小さなベッドで寝た。すぐ近くにある体温を感じながら、たわいもない話をして、いつの間にか眠っていた。
明日はどうしよう、という不安も喜びも俺たちにはなかった。
だって、明日になったら元通りなんだ。
「大佐、続き」
「ほら、これだ。なにかめぼしい情報はあったか?」
「あんまり」
次の日には、駆け落ちごっこは終了していた。
俺たちの立ち位置は変わらず、変わったことと言えば、昨日の代償に倍に積み重なった大佐の業務だろうか。絶対定時には終わらない量だ。
「やっぱりさ、」
「ん?」
俺の呟きに、大佐は顔を上げて俺を見た。
「俺たちに駆け落ちは無理だ。性格上、優先順位は変えられないだろ?俺も大佐も」
俺らは、今あるものを手放せるような場所にいないのだ。
そんなこと、この男はとっくにわかっているはずだ。
「ははは。私はわりと本気だったがね」
「嘘つけよ。俺をダシに息抜きしたかっただけだろ」
100%嘘ではないだろうけど。俺はこう返すしかなかった。
「つれないね、鋼の」
大佐は口元だけ笑って、また書類に目を向けた。
ここで俺も先程の本を読み始めるべきなのだが、まだ言いたいことがあった。
「俺たちに、駆け落ちは無理だ。だから、ちゃんと全部にケリをつけてから行こうぜ。どっか、誰も知らない場所に」
数秒僅かに口を開けたままにして、それから大佐は嬉しそうに笑って頷いた。
俺たちの約束が、また一つ増えた。
end
今日は駆け落ちの日だそうで。