かけらことばのおんなのこ

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「聞いちゃうんだ。名前」

「あ、すみません! 初対面なのに、失礼なことを……」

「いや、そうじゃないんだけど。いいよ。ただ、やまとさんには内緒にしてくれる? 僕が来たこと」

「え? なんで―――」

「いいから。名前を教える交換条件だよ。わかった?」

「……はい」

「僕の名前は“春瀬”。春に浅瀬の瀬で“はるせ”」

「はる……せ……」

 はてな。どこかで聞いたような。

「教えたからもう行くね。お邪魔しました。もう店には来ないよ。安心してね」

 くすっと笑うと、春瀬は扉を開けて出て行ってしまった。

「…………」

 俺はただ呆然とするほかなかった。



 その後のことはあまりよく覚えていない。
 いつやまとが戻ってきたのかも、結局春瀬の後に客が来たのかさえ、定かではなかった。
 気がついたら自宅のベッドに横になっていたが、そんなことすら俺にはどうでも良いことだったのだ。

 頭の中ではずっと、春瀬とのやりとりが思い返される。

 春瀬のあのしっとりとした髪。憂いを帯びた微笑。
 どことなく気だるさを醸し出している立ち姿。少し低くかすれた声。
 そして“春瀬”という名前。

 ―――春瀬の全てに、俺は惹きつけられてしまっていた。
 うっかり気を抜けばすぐにでも、あのミステリアスな存在に思考をとらわれてしまう。
 そしてそれを振り払うことも忘れて、俺はひたすらに夢想を続けた。

 もう店には来ないと言った。ということは、もう会えないのだろうか。
 他の曜日に来たりはしないだろうか。一体やまとにはどんな用事があったというのか。
 知りたい。知りたい。知りたい。でももうきっと、知ることはできない。

「……くそ。何考えてんだ、俺」

 そこで俺はようやく我に返って、ひとまず思考を止めた。
 またたく間に睡魔が襲ってきて、すぐに眠りに落ちた。

 結局、春瀬という名前を以前どこで聞いたのか、思い出すことはなかった。
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