慈愛の女神

□☆慈愛の女神 1章
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 「うわぁぁん!」
 朝早くから第三師団に響く泣き声。それは師団長の執務室からで。
 「大佐!またですか」
 執務室の扉が勢い良く開け放たれる。入ってきたのはシャーレ・ミトン少尉。この第三師団で師団長補佐を務める女性。彼女が入るなり、目に入った光景は自分の執務机につきながら片手で目元を覆いため息をついている第三師団長ジェイド・カーティスと、来客用のソファーの上で大泣きする2、3歳の少女。
 「あぁ、ミトン少尉か…」
 手を退け、少女を抱き上げるシャーレへ目をやる。いつもなら気配で気付く筈のジェイドだがどうも疲れているのか近づくまで気が付かなかったのだ。
 「いけませんよ、幼子は愛情が必要なのです」
 シャーレがよしよし、と背中をあやすように撫でてやれば少女は泣き止み、しがみ付く。
 「私がそういった感情に疎いのは…」
 「ええ、存じております。しかし!ピオニー陛下がお任せしたという事は何らかの事情が…!」
 本格的に説教に入りだした補佐官に、ジェイドはもう一度深くため息をついた。
 「聞いていますか、大佐!」
 「聞いている。少し静かにしてくれ、寝不足の頭には響く」
 結局昨日から少女を押しつけられ、事ある毎に泣き始める少女をテリトリーに入れたまま安心する事などジェイドにできるわけはなく、寝つく事すらできなかった。元よりピオニーの仕事が回ってきて睡眠時間など仮眠時間にしかならないのだが。それすら取れなかったのだ。
 <陛下は一体どうしろと仰るのか>
 幼馴染みとして長年一緒にいるにも関わらず、今回は全くピオニーの意図が読めない。
 「しかし子供というのはわからない生きものだ。その子は私を嫌いながら出ていこうとしない」
 うんざりした様子のジェイド。昨日の内に一度はシャーレに薦められて少女に触れようともした。がその瞬間に泣かれた。シャーレの腕の中ならば安心するようなので、預かってもらおうと考えたのに、彼女がいざ少女を連れて執務室を出ようとしたら、また泣いた。
 「そうですね。多少言葉を話してくれればいいのでしょうが」
 少女は第三師団へ来てからは泣く以外一言も声を上げない。言葉を発しないのだ。いつの間にやら眠ってしまった少女を見つめながら呟き、ふと思い出したようにジェイドを見る。
 「大佐、名前は思い付きましたか?」
 「いや、全く」
 即答するジェイドにシャーレは小さくため息をついた。結局陛下からの命は[第三師団長の少女の引き受け及び面倒。後名前考えてやれよー]だそうだ。
 「すまなかった。仕事に入ってくれ」
 「はい」
 シャーレは静かに寝息をたてる少女を横長のソファーへ寝かせ、毛布をかけてやり、ジェイドのいる机の傍の執務机へついた。
 「今日はキムラスカとダアトから和平定期連絡の使者がいらっしゃいます」
 手元のグランコクマ全体のスケジュールを開き告げる内容にジェイドは取り掛かっていた書類から目を離し、信じたくない現象を確認するかのように口を開く。
 「まさか、とは思うが、ナタリア殿下とファブレ子爵ではないだろうな」
 「いえ、その通りです。ダアトからは導師タトリンと導師補佐の詠師グランツがいらっしゃる予定です」
 予想通りの結果にジェイドは盛大なため息をついた。そんな予定は昨日の内には入っていなかった。
 <陛下、仕組んだな>
 ジェイドがこめかみを押さえたと同時に自分の私室でブウサギと戯れていたピオニーはブウサギ逹も逃げ出すような大きなくしゃみをした。
 「それよりシエル少佐はどうした?」
 ジェイドは気を取り直しもう一人の補佐官が姿を見せない事を不思議に思い、時計へ目をやりながら尋ねる。時計の針は短針が7、長針は4。20分を指している。一般始業時刻はとうに越えているのだ。
 「バイラルですか…。得意の寝坊じゃありませんか」
 シャーレは第三師団の予定表へ目を通しながら素っ気なく答える。
 「本日の第三師団は第一分隊から第四分隊までがテオルの森にて魔物を相手に実践演習です。第五分隊、第六分隊は軍本部にて書類整理となっています。大佐は…」
 「陛下の仕事が減らないのでな。しばらくは書類に掛かり切りになる」
 やれやれとまたため息をつく。ピオニーは厄介事をジェイドに任せる(押しつける)習性(?)がある。そのせいでジェイドの仕事は、師団長としての仕事、大佐としての仕事、臨時の任務、加えて皇帝の書類仕事だ。やればできるのに、まず8割型やる気にならないのがピオニー。ジェイド曰く、家畜と戯れる時間があるなら真面目に仕事しろ、だそうだ。しかも、今は少女の面倒まで入っている。激務も激務だ。ジェイドは決して仕事を投げ捨てたりせず(拾いもしない)自分の時間の全て(食事や睡眠ですら)を削り仕事に向き合う。いつジェイドが倒れるか部下逹は気が気でないのが現状。ジェイドが倒れたら、ピオニーへの嫌がらせとして執務室にある、宮殿と繋がる隠し通路を封鎖して、顔を合わす事もできないようにしてやるなどと計画している部下も少なくはない。
 「それと正午からガイラルディア伯爵がいらっしゃる予定だ。いつものように見張り兵へ言っておいてくれ」
 「はい。ですがあの方は自由奔放な方ですから気ままにいらっしゃると思いますよ。後は、ナタリア様、ルーク様、アニス様、ティア様もお通しするように言っておきます」
 「ああ、頼む」
 結局なんだかんだで2年前に旅をした仲間は集まりたがる。それもジェイドは暇がないと理解しているのか、王族やその姻戚関係の子息、はたまた中立国の最高指導者とその片腕までがこの執務室に集まるのだ。
 「では私は持ち場に戻りま…」
 「遅れました!」
 シャーレが第六分隊長としての仕事を持ち、立ち上がると、扉が開く。
 「バイラル!騒がしいぞ」
 シャーレは息をきらせながら現れた男性を叱咤する。
 「すまん!」
 急いで頭を下げる男性は、バイラル・シエル少佐。シャーレ同様ジェイドの補佐官である。
 「いつもいつもいつもいつも!何度言ったらその遅刻癖は治るんだ!」
 自分より階級は上の筈のバイラルに叫ぶ。言葉遣いに関しては階級に差があっても同じ補佐官という役にあるのだからとジェイドも放置している。
 「今日は宿舎の時計の調子が悪かったんだ!」
 「その言い訳は4日前も聞いた!」
 がみがみと言い合いを始める2人を横目にジェイドは黙々と仕事を始める。コチコチと時計の針が進み、カチッと短針が8を指した時。
 「シャーレ、バイラル。痴話喧嘩なら余所でしてください♪」
 ジェイドはにっこりと満面の笑顔で未だ言い合っていた補佐官2人を見る。言い争っていたにも関わらずジェイドの言葉は耳に入るのか、2人は同時に口を止め、ゆっくりと恐る恐るジェイドを見た。笑顔なのに、目が笑っていない事はわかる。補佐官なのだから!
 「しっ、失礼しました!」
 「申し訳ありませんでした!行くぞバイラル!」
 「あ、ああ!」
 必要書類だけ持ち第五分隊長と第六分隊長は出ていった。それを見送り、眼鏡を押し上げながら小さく息をつく。
 「全く…あの2人も喧嘩する程仲が良いというか」
 それから書類に目を通そうとしてふと視線をあげる。視線の先にはあの少女。
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